短歌をめぐるHappy-go-lucky!

パルメザンチーズの雨が降り注ぐ

短歌とは、5・7・5・7・7の形式に則った31文字の定型詩である。
この点に異論はあまり出ないかと思う。とりあえずの大枠として、この部分は社会的合意がなされていると考えていいだろう。近年はかなりこの点の縛りは緩やかになったとはいえ、基本的には維持されている部分かと思う。少なくとも、現代短歌にあまり触れたことがなく、百人一首をはじめとする古典和歌くらいしか触れたことがない人は、とりあえずこの枠組みから入っていくのではないか。
例えば、

パルメザンチーズの雨が降り注ぐわたしは何を残せただろう
という歌と、
あ、いま、光になったミシシッピアカミミガメのふりふりの尻尾

という歌があるとしたら、短歌を始めたばかりの人はたぶん前者の歌を作ると思う。定型も、文字数も守られているからだ。

アルマジロVS味噌職人

そして次に、まずは一読して「意味がわかる」もしくは「情景がわかる」歌を詠むのではないかと思われる。これは何も確たるデータや聞き取り調査を行った訳ではない。単に私の経験にすぎないし、一般化するつもりもない。「パルメザンチーズの雨が降り注ぐ」の章の話もそうだが、あくまでも「私がそうだった」という話である。「お前の昔話なんか聞きたくない。そんなことするなら、シマウマを溶接工として教育する方がマシだ」と思われた方には申し訳ないが、そうでない方にはもう少しお付きあい願いたい。
ここで、 「意味がわかる歌ってなに?」と思われた方に、例歌を挙げたい。

アルマジロ大行進するその夜に味噌職人はパリへ旅立つ

典型的な二物衝突の歌である。果たしてアルマジロが大行進するのか?味噌職人て?なんでパリへ旅立つの?そもそもアルマジロと味噌職人の関係って?
作者(筆者)はほぼ何も考えないで作ったが、読み解くのはかなり困難な歌ではないか。
では、こうした歌を果たして短歌を始めたばかりの人は作るのだろうか?おそらくこうした歌を作ると思う。

先輩がひとこと「馬鹿ね」と微笑んで校舎を去ったあの秋のこと

まあ、謎はない。主体がいる。先輩がいる。春ではなく何かの理由で秋に学校を去らねばならなかった先輩への、微かな思慕あたりまでは読み取れるだろう。起承転結がはっきりしており、少なくとも、アルマジロや味噌職人よりかは読み取りやすい。

ゲルニカの絵でフリスビー

さて、ここまでつらつらと語ってきたが、とりあえず筆者は「短歌を作り始めたばかりの人は比較的定型を守り、意味や情景が見えやすい歌を作るのではないか」という偏見を持っている。
ということで、筆者の昔語りを少し(ここでも「お前の昔語りなんかききたくない。そんなことするなら、一生タバスコ入りバナナジュースしか口にできなくなる呪いを受ける方がマシだ」と思われた方は、結論の「籠城 マクドナルド大宮駅西口店」まで読み飛ばされたい)。
私が短歌を始めたのは2017年の梅雨時である。ある会社帰りの夜、映画鑑賞以外に何か創作できる趣味を見つけたいと思い、つらつらと考えながら用水路脇を歩いていた。その時考えていたのは、次の3つのことだった。

・小説以外の何か文芸に関わることがやりたい。
・「ゲルニカの絵でフリスビー」みたいなふざけたことをやっても、受け入れてくれる分野でありたい。
・できれば長続きさせたい。

この3点だった。当時、小説を書いて挫折していた。現代詩は何もわからなかった。俳句は決まりが難しそうだった。

そうだ、短歌をやろう。
そして帰宅した後ネットを巡回し、「うたの日」というサイトを見つけた。そして、たまたま時間の都合がよかった、「殺し文句」の部屋に次の歌を投稿した。

最高の殺し文句を秘めながら誰も殺さずそっと生きてる

そして、バラを頂いた。それが、今に至るまでの短歌との長いお付きあいの始まりとなった。

籠城 マクドナルド大宮駅西口店

何も好んで短歌を始めたら訳ではない。ただ、自分の性格とやりたいことが、たまたま短歌という器と合致していただけのことだ。そして、短歌に関する知識もなかったので、とりあえず意味がわかる定型の歌を量産しつづけた(なんなら今もしている)。
ただ、色々な縁があって、なんとかかんとか、今に至るまで短歌を続けられている。大変幸運にも、筆者の短歌を好きだと言って下さる方にも出会えた。そしてそれは、小説を書いていた時にはついに1人も出会うことができなかった人だった。
大学から大学院にかけて一番通った店は、間違いなくマクドナルド大宮駅西口店である。だいたい嫌なことがあった時に通うことが多かったし、店の中でも嫌なことがあった。それでも何度も救いを求めて、引きこもるように、籠城するように、店内でマックナゲットとホットコーヒーを買い続けた。でもなんとか、多少なりとも、あの頃よりはマシな場所に来れた(気がする)。

ここまで書いてきたのは、時々「これは短歌ではない」とか「これは単に31文字で状況説明しただけ」とか「歌に面白さがない」とか「歌にオリジナリティーがない」と、わりと歌を始めたばかりの人が言われている気がしていて、それはよほどの天才でない限り誰でも通る道だよ、と言いたかったからだ。短歌を続けるということは何も保証された道ではないけれど、列車で最短距離で目的地にむかう間の車窓に、ふと草原を吹きわたる風を感じることができる道であると思う。

たまには、そういう旅もいいじゃないですか。

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