百人一首についての思い第七十五番歌


「契おきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり」 
 藤原基俊
 あれほど約束をしてくださった「恵みの露」のような言葉を信じていたのに、(露のようにあてになりませんでしたね。)ああ、今年の秋も、結局むなしく去って行くようです。
 
 I believed what you told me,
 but again this autumn passed
 filled with sadness;your promises―
 were they but vanishing dewdrops
 of the mugwort blessing?
 
 小名木さんによれば、「百人一首」の一番から五十二番までは、主に私たちの国の国柄や気風などをよく表した歌が並んでいる。五十三番から作者の人生ドラマまで踏み込んで鑑賞する女流歌人たちの歌が続く。「大化の改新」を行い、「シラス国」の構築を目指し、日本独自の国風文化を育成してきた過程がそのまま歌の配列になっている。女流歌人の所では、のびのびと生きる女たちの姿が見える。それを六十九番の歌で「錦」のようだと譬えている。だが、小名木さんの解説によれば、この七十五番からはがらりとその姿が変わるというのだ。それは、古代から続いた美しい日本の姿が崩壊し始めるというのだ。
 
 この歌は、藤原基俊が藤原一門の総帥である、先の摂政関白太政大臣の藤原忠通に贈った歌である。保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。これが「保元の乱」である。藤原忠通は朝廷の政治に武力を介入させてしまい、「錦のような」平和な世が終わった。しかし、人間は神ではない。当たり前のことだが、神様は人間とは違っていて、人智では計り知れない深慮遠謀をお持ちなのである。
 
 そのことは、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)と二度にわたる蒙古襲来という悲劇が起きたとき、武士の存在がなければ、日本はモンゴル人と高麗人によって蹂躙されていたことだろう。武士の台頭は貴族階級には大変良くないことであり、「錦」のような政が破壊されていくのを見るのは耐えられなかっただろう。しかし、二度の蒙古襲来の際に武士がいかに大きな盾になったかを考えると、やはり歴史の必然を神様が先読みされて、武士の台頭を用意されていたのだとしか思えない。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?