水戸黄門と鬼平

水戸黄門と鬼平
 
 最近は日本人が大好きな時代劇をテレビで見ることができなくなった。私は、昔から水戸黄門が大嫌いで鬼平が大好きだ。
 私が水戸黄門を嫌う理由にはいくつかある。
 まず、水戸黄門は古典的な勧善懲悪型の番組の典型である。これは、今の時代にはいささか古すぎる。もちろん、善を懲らしめ悪を勧めるというわけではないが、善悪というのはさほど単純明快なものではないからだ。その裏返しということで、鬼平が好きだ。このことについてはまた後で述べよう。
 それから、日本国民がよく一斉に見るような番組が嫌いである。だから、NHKの朝のドラマや大型ドラマは一切見ない。そして、紅白歌合戦も嫌いである。
 何も、これらの番組の善し悪しや優劣を論じているのではなく、私は個人的に嫌いだから見ないと言っているのだ。いつも言うが、人の価値観はそれぞれであり、好きな人は見れば良い。私には、それを見るなと咎める権利など一切ない。
 最後に、善悪の判別の仕方があまりにも単純なので、好きになれないし、問題解決に最後に印籠を見せるという型に嵌まったパターンも嫌いだ。善悪二元論というのは、私が最も嫌いな思考法だ。反日左翼も朝鮮人も、中国人も、この善悪二元論に染まっている。だから、彼らはいつでもこう思っている。
「自分たちはいつでも正しく、間違っているのは日本であり、日本国民だ。」と。実に幼稚な思考回路だ。さらに言えば、中国は、自民党の中でも二階を元とする売国奴議員達は、良い人だと思っているのだろうが。自分たちに都合の良い人たち良い人なのである。朝鮮人も反日左翼も同様だ。実に分かりやすい。
 それはさておき、どうして鬼平が好きなのかという理由について、一言述べよう。
 それは、原作者の池波正太郎の考え方がすきだからだ。具体的には、こういうことだ。
 まず、鬼平は春をひさぐ夜鷹を軽蔑したり、手先の密偵を信用せずに使ったりしない。どんな底辺の人間でも何処までも人間として扱う。ただし、殺人や強姦をする盗人には厳しい。同じ盗人でも殺人や強姦をせず、貧乏人からは盗まないというタイプの盗人には一種の敬意さえ払う。かといって、そいつを見逃したり手を抜いたりして責務を疎かにするということはない。信用して使った密偵でも裏切り者は容赦なく裁く。
 それから、人間の弱さや業というものを、鬼平はよくわきまえている。正確ではないが、鬼平がこういう意味のことを言った。
「普段は良いことをする人でもふと魔が差して結果的に悪いことをし、普段の行いが悪い人でも人助けをするというような良いことをするものだ。」
つまり、善悪というのは白か黒かという二元的なものではなく、人間はだれしも白くも黒くもなる善悪の境目を生きているということだ。
 
 さて、ここで話はがらりと変わる。
 親鸞は弟子に聞いた。「唯円房は私の言うことを信じるか」
「はい」と答えたら、「では、私の言う通りにするか」と重ねて弟子に聞いた。
 弟子が同意すると、「人を千人殺せば、往生は一定だぞ」と親鸞は言った。
 弟子が言う。「お言葉ですが、私は千人どころか、ただの一人もこの身では殺せません」、親鸞が問う。「では、どうして私の言う通りにすると言ったのか」と。
「これで分かっただろう。何事であっても、思うようになるというのであれば、往生のために千人殺せと言われれば、殺すだろう。だけど、一人でも殺せないのは業縁がないからだ。
「わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」(この一文は意訳せず原文のまま)と言われた。
私たち人間は、まさに「わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」という存在である。
 池波正太郎はその辺のことを深く理解していたから、鬼平のような名作が書けた。
 
 さて、水戸黄門と鬼平を比較して親鸞にまで話が飛んだが、私たちは二元論には深く注意しなければならない。
 朝鮮人がよくやる「勝ちか負けか」というのも二元論だし、「善か悪か」も二元論だ。当然、「白か黒か」も二元論だ。
 二元論で片が付く世界もあるが、二元論だけでは決着が付かない世界もある。このことを常に心にとどめておけば、私たちが取るべき態度が明確に見えてくる。
 

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