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凪の、心、の、お話。|#66日ライラン参加のご報告。

なぎ

夜と朝の境目。

瞼の裏からみた目覚めの光景。

半月のドームスクリーンが翻る。

訪れるまぼろば。

騒々しいほどの静寂。

・・・

こんにちは、ネコぐらしです。

今日の私は凪です。凪くらしです。


最近、5歳児みたいに喜怒哀楽の感情をあっちゃこっちゃ転がしています。

周囲に振り回されているわけではなくて、あえてそうしています。

心の防御壁を取り払って、どこまでも突き進んでいく。

さながら狂戦士の佇まい。やっちゃえバーサーカー。


なので、喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。
ぜんぶそっくり煮込んだみたいに、衝撃的な毎日を送れている。

こんなに喜んで良いんだ
こんなに怒って良いんだ
こんなに哀しんで良いんだ
え、こんなに楽しくて本当にいいのだろうか

正直、とっても疲れたり、どうしようもなくやるせなくなる日もたくさん。

でも、何もかもが自由で、孤独で、それでいてあたたかい気持ちが何度もポツりと立ち上がる。

激流のような感情をさらされてなお、削られない原石がある。


まるで『ホームレス中学生』で田村さんが語った「味の向こう側」みたいにぴょこんと飛び出る。

お笑い芸人の麒麟の田村さんの「貧乏だったから噛むことで空腹を満たしていた」というネタは、ごはんを噛み続けると味がなくなるが、そのまま噛み続けると一瞬ふわりとした甘さを感じるというもの。 それを「味の向こう側」と表現されたのがおもしろい。

株式会社「笑」:「味の向こう側」調べ

・・・

味の向こう側。

当時、わたしもすっかり影響されて、お米をドロドロになるまで食もうとした。

お米を電子分解するくらいの気概で噛んで、噛んで、ようやくおかゆみたいに。
そこからさらにさらに細かく、とっくに液体になった米の沼を、沸かしたての浴槽に片足つっこんでぐるぐるまわすみたいに。
とっくになくなった旨味も気にせず、ずっと口の中でぐるぐるとかき混ぜる。

結局。私は向こう側にはたどり着けなかった。

栓をスポンッとあけた排水溝みたいに、お米だったモノがつるつると喉奥へ滑っていってしまった。


最初はこう思った。「私にはきっと絶望が足りない」

一家が離散し、中学生にしてホームレス生活をよぎなくされた田村さん。
日本社会で体験した人は稀であろう「空腹感」を越えた先にある「飢餓感」

そこに達した者のみがようやくたどり着ける境地。
それが「味の向こう側」なのだろうと。

私は長らく「絶望の果ての、かすかな希望なんだな」と、解釈してた。


・・・


しかし「絶望だけが必要なエッセンスじゃない」と、ごく最近気付いた。

一家の解散を宣言した父親への「怒り」
離れ離れになった家族への「哀しみ」
それでも身を寄せ合える人々がいる「喜び」
絶望の最中でも欠かすことのできない食への「楽しみ」


もっと構造は複雑で、心が左に右に、上に下に、どこまで揺れ動いていたんだなって。


絶望と希望の対比はとても美しい。

私も無意識に、この対比構造へ物語を収束させようとしてしまう。


でも、この対比だけでは説明がつかないことが、ごまんとあった。

そのたびに、一種の怒りも覚えたりした。

絶望の果てに希望は見えるものじゃないのか、とか。
どうして希望だらけの人生を送る人には、一向に暗い影が落ちないのか、とか。

へんな話、自分の不幸を祝福し、他人の幸福を呪うような気持ちになることもあった。
これはいけないと、自分の不幸を呪い、他人の幸せを祝福に、と切り替えてみたこともあった。

しかし、何かが変わった実感はなかった。
絶望と希望は1:1で交互にはやってくるものじゃない。

だから、この対比構造にぜんぶの物事をおしこめるのは、大変危険だと思った。


・・・

ようやく、その一端をつかめた気がする。

心があっちやこっちに揺れ動く。
それでもなお削られないシコリみたいな原石。

「感情の向こう側」

耳に馴染みがある。

これを「凪」っていうんじゃないだろうか?



わたしの大好きなゲームにも、ナギ節という概念があった。

世界を荒らす厄災。
気まぐれに街を襲い、人の命を塵のように奪う。

選ばれた人間がそんな厄災を打ち払い、訪れる一時の平穏。
ナギ節。

しかし、わずかな期間をもって厄災は復活する。
輪廻の中、わずかなナギ節を求め、人は世代を変えながら厄災に対峙しつづける。


この物語も絶望と希望の対比構造にもっていきやすい。

でも、これでは「喜怒哀楽」のすべてが「絶望」に押し込められてるような違和感を覚える。


厄災の中でも生き残った人の喜び
襲い来る理不尽への怒り
大切な人を奪われた哀しみ
希望を繋ぐために開かれる、宴やお祭り。
決して奪わせない楽しい時間。


絶望の日々だって因数分解すると、まるで字面からは想像もつかない要素が抽出できる。

不思議だとおもった。

だって物事はシンプルに考えるのが良い、と教えられてきたから。


実際、要約されたことでまるっきり失われてしまうニュアンスがある。

シンプルにって、誰がための言葉なのだろう。

確かに、何事もなく平穏に生きるには便利な教えかもしれない。
考えないことは、時に人を救うことも承知している。

でも、平穏に、慎ましやかに生きるって、何も考えないこととは別だと思ってしまう。

花を愛でて
青々とした晴天の空に吸い込まれ
風に髪をゆらして
目一杯深呼吸するような。


そんな時間の中でも、わたしたちは感じて、考えを巡らす。

考えないようにするためには、考える必要がある。

考えないも、一種の境地だ。

それこそ「考えに考えた向こう側」の世界。

そう思うと、やっぱり心と同じように脳みそもしっかり揺らさないと、凪にはたどり着けない気がする。


・・・


今、私は凪ってる。

でもこれは、本当に儚い感情。

すぐにでもアップテンポの曲をyoutubeで探し出して耳にぶちこめば、あっというまに崩壊する。

だけど、せっかくだから、今日はこのまま凪に浸りたい。

絶賛何もしないデー。


もうちょっとこの凪を感じていたいな。


・・・


…え、でも文章は書いてるじゃん?

それはそう。だってこれはもう習慣だもの。
「書き続けた向こう側」
まだまだ浅瀬チャプチャプだけどね。

もしかしたら「向こう側のさらに向こう側」もあるかもしれない。

あるなら見てみたい。だからもうちょっと書いて書いて、潜ってみたいなって。



その一環として、今日からヤス(ウエダヤスシ)さん#66日ライラン に参加することにしました。

今回の投稿で連続63日目なので、走り切る頃には連続128日投稿になる予定。2進数っぽくてキリが良い。

孤独な時間も大切だけど、みんなで並走していくのも大事だよね。

どっちも大事。アンビバレンツ。

新米ランナーの身の上ではありますが、みなさま、本日からどうぞよろしくお願いいたします。



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