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『幸せの受動喫煙』のお話。

こんにちは。ネコぐらしです。

今朝、早起き記念にと散歩にでかけたところ、1時間半も経過してしまいました。
本当は公園でひとやすみしつつ、ポケットに忍ばせた文庫本でも読もうと画策していたのですが、思った以上に興が乗り永遠と歩きつづけました。おかげでふくらはぎパンパンです。

本日の記事は名目上、⇩前回⇩の続きとなります。

ですが独立したテーマを扱いますので、前作を読まずとも読め進められます。
※一応読んでおくとちょっと腑に落ちやすいかもな~程度。
お気になりましたらぜひぜひ。



前回では、オーイシ武道館でのライブを通して沸き立ったノスタルジックな感情を、既存の文化や風習と結びつけ最終的に『過去への憧れ』と解釈してお話をまとめました。

『不幸体質』な私が知らなかった世界



ライブに誘ってもらった友達のお陰で、新しい幸せをおすそ分けしてもらったネコぐらし。

最近はこういった出来事が増ました。それまでの友人関係も更に豊かなものになったし、新しい友人たちとの出会いも次々と増えています。ひとえに、私自身、幾千もの失敗を繰り返した末に辿り着いた結果にも思えて、少しばかり誇らしい。

どちらかといえば「不幸体質」な私です。

ちょっとした発見やコツ、例えば距離感だったり、嫌われる勇気だったり、一瞬一瞬で感謝を伝える意識など、丁寧に丁寧に何年もかけて取り扱っていった結果、ようやく「幸せの輪」の末端に入れたような感じがするのです。

厭世家であった私からすれば、こんなにも満ちた世界があったのかと、ただただ驚いています。ささいな態度一つで、不幸体質の私への認知がこんなにも変わるのかと。
そうして、いろんな人から「幸せパワー」をおすそ分けいただいている現状ではあります。



急なんですが「受動喫煙」ってありますよね。

本人がたばこを吸っていなくとも、同一の環境化で発生する副流煙を吸い込み、肺ガンなどのリスクが跳ね上がる現象。

ある意味で、不幸体質な私が「幸せの副流煙」を享受できている状態。

この状態を『幸せの受動喫煙』と呼ぶことにしました。

・・・

『幸せになるための、3つの方法』は書かない。


ブログ的に考えれば、ここからは

『幸せの受動喫煙をするための3つの方法』

とか続けるべきなのでしょう。
誰もが幸せを求める時代において、このワードは注目度高まります。

しかし、それらを期待してこちらの記事を開いた方には申し訳ありませんが、この方法については一切語るつもりはないのです。

「受動喫煙」なんてマイナスな印象を招きやすい言葉を、なぜチョイスしたのか。
自身の出生のルーツを交えつつ、これを掘り下げていきたいのです。

自分自身かなりマイノリティ側の人間だと思っています。
中央値90%から省かれた統計学的なノイズ要因。遺伝子上の進化論の流れから淘汰されるべくして淘汰される側の人種だという自負すらあります。
それほどまでに私は社会に適合できていません。


そんな私が「幸せになれた3つの方法」など語ったところで、それは詐欺まがいの代物です。
まだ私自身幸せかどうかも分からない内に、無責任な方法論をひけらかしたくない。そんなものはChatGptあたりに任せておけばよい。
もっと本質に近づきたいんだったら、私の記事などという有象無象に時間をかけるより『アランの幸福論』を読んだほうが、絶対にあなたのタメになる。


・・・

『恵まれた、自覚なき人』の名言集


といっても、実際に書籍にまで手を伸ばす人は、とにかく少ない。


しかし、ネット上にあふれる名もなき誰かの名言集には、みんな興味津津。私も津津。


なぜ私たちは、過去の著名な哲学者たちの言葉よりも、無名の誰かが語った発展途上の言葉たちを追いかけるのだろうか?



幸せと一口にいっても、いろいろなカタチがある。たくさんの記事の中から、至高の逸品を選ぶのでなく「私はこうだったよ」「僕はこうしたよ」と、まるでビュッフェを楽しむかのように、自分の状況により近しい「成功体験」のエピソードが欲しいのだ。しかも、自分と同じく無名に近い一般人が、そういった人生逆転劇を繰り広げていると、親近感もグッと高まる。

『成功した事例』が散りばめられているから、光り物に集まるカラスのように私達は群がる。成功例だけ抽出しようとする『効率重視』だったり『タイパ』意識が強いのも、現代人ならではの特徴かもしれない。

ですが、同時に誠実性には欠ける。
そして正直なところ無責任な側面が大きい。

物事には二面性がある。

1の成功のタメの100の失敗。
1人の成功の足元に転がる100人の失敗の亡骸。

誠実な真実は、その失敗すらも如実に描き出すものではないのだろうか。
恵まれた人の真実に、そういった失敗が映し出されることは極端に少ない。

・・・

ホメオスタシス的思考


幸福と不幸の割合は、1対1ではありません。
なのになぜか人は成功例だけを取り出そうとしてしまう。

要因として『ホメオスタシス的思考』が根付いているからだと、私は考えています

恒常性(ホメオスタシス)とは、生体の 内部や外部の環境因子の変化に関わ らず生理機能が一定に保たれる性質 のことであり、生物にとって極めて重 要なものです。

ホメオスタシス(恒常性:homeostasis)とは

アルコール依存症患者の話をしている時。このホメオスタシスの概念は例としてよく持ち出されます。

心的ストレスを許容量以上に受け取った対象患者は、そのストレスを中和するために飲酒が恒常的な習慣になる。つらいから飲んでメンタルを元にもどす。
そうして体が「なるほど、これが均衡を取る方法なんだな」と学習していく。ある意味で脳を騙したまま

アルコールの健康被害は自明にもかかわらず、人はホメオスタシスを保持する目的で飲酒を行う。言い換えれば、幸せを一定以上担保するために飲んでいる。味自体や風味が好きで飲んでいるような純粋な愛飲家は、むしろアルコール依存症になりにくい。


本来であれば、幸せになるためには「失敗」のプロセスをいくつも経ていくのが筋なはずなのです。

100の失敗と1の成功の比重。

しかし、失敗を知らずに「生まれ持った運」を無自覚にひけらかした限定的な成功体験が、世にあふれかえるばかり。まるで前提条件が異なっている情報に踊らされる。熱された鉄板の上で他人を踊らそうとする無自覚な幸福人たちが、今日も不幸な誰かを増やしている。

「自身が不幸だと感じている誰か」はその状態を均衡にしたいと考えるはずです。
だから進んで甘い蜜を吸いに行く。ストレス要因を軽減するために。ホメオスタシスを保持するために。
幸福の心理としては、仕方のない働きです。不幸の上にさらに失敗を積み重ねる体験などはしたくないし、できることなら失敗という二文字を目にしたくもない。

1の不幸 と 100の幸福 で初めてホメオスタシスが成立すると、本気で信じてしまう人がいる。

それが痛みに対して耐性をなくした「無痛主義」の人々の実態なのではないかと、私は思うのです。

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無痛主義の現代人




私が小学生の時は、かなり喧嘩っ早い性格だった気がしますが、高校に入ったあたりから痛みを伴うほどの喧嘩はまったくと言っていいほどありません。

テクノロジーの発達とともに闘争のステージが変化していったこともあるのでしょう。
リアルからバーチャルに。私達の原始的な攻撃性は、殴る蹴るといった肉体的な領域から、言葉を用いた精神的な領域へベクトルを定めました。そうすることが『文化人』っぽいからです。

そうして『文化人』は、メディアや世間の声を味方につけ、反社的な活動の大半を根絶することに成功した。暴力による正当性を否定することに成功した。そしてケーキの切れない少年達を受け入れることを拒否した。半グレと呼ばれる層が世間にはあふれかえっている。

パノプティコンじみた相互監視社会が、常に彼らの動向を見張っていて、何かコトを起こそうものならすぐにでも警報機が鳴らせてしまえる。私達は『文化人』らしく、暴力から秩序を護ることができている。できてしまえている。

・・・

テクノロジーによって世の中から「肉体的な痛み」は極力減ったような気がします。
暴力被害の予防的な観点でもそうですが、傷の修復についても目覚ましい医療技術の発展に支えられています。3Dプリンターで人工心臓まで作れてしまうし、現場にAIシステムが入ることも稀ではなくなりました。


代わりに問題視されてきたのは言葉による誹謗中傷などの「精神的な痛み」です。SNSの発達でますます切れ味も勢力も増していき、もはや「すれ違いざまに刺されることが当たり前」の日常とさえ言えます。
「心の痛み」が、より大きな課題となって私達の中に広がりはじめた

こちらは『文化人』であっても、対応が追いついていないのが正直な印象。

次々とラジカルな心理的なアプローチが世に生まれているはずなのに、自殺者の数は一向に減らない。
国内ではZ世代達がリベラルによる実力主義の中で絶望未来を訴える。中国のミレニアム世代では、熾烈な学歴社会に希望を見いだせない「タンピン族(寝そべり族)」が着々と数を増やし、英国では、完璧な日常を演じなければならない反動からか「nothing-cation(なにもしない)」という旅行形態が流行っている。



人はどんどんと「無痛主義」になる。

・痛みが無い方が幸せだからだ。
・痛くならない方法を見つけよう。
・痛みと真っ向から向き合うのはやめよう。

共通しているのは、なるべく「痛み」を回避したいという思惑。
この無痛主義こそ『幸せの受動喫煙』の話につながる重要な要素なのです。

・・・

『幸せの受動喫煙』

先に断っておきます。ここから紹介する私の友人が全部が全部そうではないことを、あらかじめ伝えておきます。

冒頭に戻り、私は今、友人たちに恵まれています。

ですがきっと、その大半は「運」がいい人たちなのです。

どことなく、無痛主義を感じさせる。まるで「幸せで楽しくあること」がこの世の真理だ、と声高に訴えているような、そんな空虚な薄っぺらさをたまに、たまに感じるのです。

いえ、なんどもお断りしておきたい。
私は、彼らから『幸せパワー』をもらっている。元気になっている。前に進む活力を与えてもらっている。彼らのことはスキです。厭世的な私が社会の中、希望を捨てずに生きていられるのは間違いなく彼らのお陰なのです。


これはアンビバレントな(相反する)感覚なのです。
2つの真逆な事象がある。でも確実にどちらも正しく私の中に存在している。


『幸せの受動喫煙』と文字を充てたのは、必ずしも「この幸せ」が「私の幸せ」とイコールではないからです。

・楽しければいい。
・争いがなければいい。
・人に嫌な思いをさせるなんて言語道断だ。

そんな綺麗事の先に育まれた人間関係など、わたしにとって興味が失せるものです。温室や無菌室で永久に暮らしていくことぐらい、きっとつまらない。四季の彩りも感じることができず、他人の良いと判断したものばかりを注入され続け、絶望や怨嗟といった感情は否定され、何もかも遠くに引き剥がされる。

その幸せはまったくもって偽物である気がするのです。

・・・

『考えない人』になりたくない


そもそも幸せとは「没頭」だと思っています。

・ただ目の前の行動に集中して全力を注げる。
・大好きな人と時間を忘れて過ごすこと。
・夢中になって夜が明けるようなこと。

そんな時間がどれだけ創れるか。
余剰や余暇があるのは素晴らしい。
でも、余白だけだと、いつか「空虚さ」がページの片隅にふと現れるはず。

穏やかで平穏な日常を願う人もいる。だけど、きっとキッカケがあったはず。「穏やかでない」「不穏な日常」があったからこそ、凪のような暮らしに感謝をしていけるのではないだろうか。ホメオスタシス的な動機があったはず。

それこそが、平穏を願ったあなたのルーツだ

ルーツを絶やしたら、きっとあなたの存在意義はヘリウムの詰まった風船みたいにどこかへ飛んでいってしまう。
それは、絶対に手放してはいけないものだ。


まさにいま、私は『幸せの受動喫煙』中。

でも、真っ向からこの「無責任な幸せ」を受け入れたりはしない。
過去を忘れない。不幸体質だった私がいきなり「幸福体質」になったと錯覚しない。
そこを受け入れてしまったら、私は考えなくなってしまう。


考えない人間になってしまうほどの不幸は、他にないのですから。




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