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コンパス(羅針盤)を見失わないで。

※やや「尖った」記事です。閲覧注意かもしれません。

ネコぐらしの勉強暮らし。

明星学園という学校をご存知でしょうか。


教育に、自由主義・民主主義的な思想を織り込んだ、大正デモクラシー以降の理念を掲げている小中高一貫校です。

「個性尊重」「自主自立」「自由平等」の三柱。
「子供には、子供の世界がある。」

まさに自由を体現した校風です。


なんと今年2024年で創立100周年を迎えるそうです。


この学園では、子供たちにある種のコンパス(羅針盤)が持たされています。

”自分たち”が”主”となって育っていくこと。

個が主役であることが、生徒には求められるのです。

「自分たちのことは自分で決める」

それこそ「子供の世界の民主主義」を目的としています。

この教育方針のもと経験を積んだ若者たちが成長し、社会活動に参加した時、どのようなパワーを発揮するのか。私は想像しただけワクワクしてきます。


・・・


わたしって「自分の事を自分で決めれている」?


日常生活を送る中で、だんだんと人は社交術を学んでいきます。

  • なるべく丁寧な言葉で喋ろう。

  • お酒の席では、目上の人にはお酌をしよう。

  • 会社の中で、あの人に逆らうとめんどくさいからゴマすっておこう。

  • 不正解を選ばないようにしよう。


考えた末に、自分で決めたことを実行する。

そして社会という大きいコミュニティの中で居場所を獲得する。

ときにはビジネス書を読み、時には大富豪からの教えをしっかりと守り、著名でリーダーシップを持った大物に勇気を持って飛び込んでいく。


ですが、これらは本質的な意味では「考える」とは別であると思います


それらは考えているのではなく

「テクニックを学んでいる」にすぎません。



体感的あるいは直感的なフィードバックを受け、自分自身の人生の方向性を修正していく。
・こうしたらうまくいった!(ポジティブ・フィードバック)
・これをやったらダメだったな…(ネガティブ・フィードバック)
こういった体験の他にも、先人たちの記した著書やビジネス書を読み、経験せずとも事前にフィードバック例を活用することができる。
インターネットでテクニック集を見てもいい。
書籍や検索がめんどうくさければ、ChatGptに聞いてもよい。
多くを吸収し、社会に順応し、現在のルールに適合する。


そんなテクニックが世の中には溢れている。

だからこそ。

「テクニックの取捨選択」と「自分で考える事」

わたしたちは、これらを一緒くたにしてしまっているのではないか。

そういった危機感が、わたしの中にはあるのです。



もっとわかりやすく、今わたしが書いているこのブログという媒体での例を挙げたほうが早いかもしれません。

  • こんな記事はだめだ!!

  • よまれなければ価値がない!!

  • 読み手を幸せにする記事を書こう!!

  • わくわくするような文章を書こう!!


わたしなりにnoteという媒体を読んでみて感じたことは

「読み手は”テクニック”に弱い」


ということでした。

  • 人の心に響く文章の書き方。

  • 一発でクリックさせるタイトルの書き方。

  • 人を満足させるコンテンツであること。


「良し悪し」という明確なラインを自分たちの手で作り上げ、書き足し、これこそが目指すべき完成形だ!と、プロフィール欄に堂々と実績を掲げて、読み手を信頼させ、自分の世界に引き込む。


そして「みんな、このnoteを参考にして、幸せになろう!」と締めくくる。


ここまで、自分で読み返してみて思ったのですが、なかなか過激な内容になってまいりました。不快になられた方もいるかもしれません。

あらかじめ私の立ち位置について、ひとつ弁明をさせてください。

テクニックを学び、実践することは素晴らしいことだと私も思っています。
わたしもたくさんの書籍に肖って自分自身の構成の一助にしていますし、テクニックを学ぶ事を否定をするつもりは毛頭ありません。

「テクニックが人を幸福にする」のは間違いないと思います。

ですが、そのことと「考えること」は根本的に違うよ、と訴えたいのです。

・・・


「マジョリティたれ」

「負け犬になるな」


大抵の文章には、そう書かれている。いえ、直接書かれているわけでありません。ですが、総括すると、大体はこういっているのと同義です。

しかし

目的地はみな違うのです。


そもそも「目的地はバラバラ」ってことをなぜか人は忘れてしまう。

  • ある人はお金儲けの為にnoteを。

  • ある人は生活の為にnoteを

  • ある人はコミュニティでの居場所を求めてnoteを。

  • ある人は自己実現の為にnoteを。

  • ある人は人の幸せの為にnoteを。


人が何かを書く理由はてんでバラバラです。
読み手がその文章から何を読み取るか。
それすらも本来であればバラバラであってよい。
多様性というものは本来、それらが相互に認めあって存在できる構造をさすのではないだろうか。

上下でなく、左右で広がる社会を。

それがベターだと、現代ではみなが口を揃えて話します。
ですが、気づけば人は 上下 だけで成り立つ構造を次から次へと創り出してしまう。
残念ながら、これは人の弱さでもあり、絶対的に避けられない動きや流れです。


さて冒頭の話に戻りますが、明星学園の生徒に求められていることは、

”自分たち”が”主”となって育っていくこと。


個性を磨くこと。そして、切磋琢磨しあうこと。

明星学園の理念の中に「自由のもとで個性をぶつけ合うこと」との表記があります。

個性を尊重することはもちろん、ぶつけ合うことも、子供の民主社会の中で認めている。

成長過程も、生活環境も違う子どもたちが、「自由」な校風の中で、「個性」をぶつけ合い、切磋琢磨して、交わり、明るくのびやかに育っております。

明星学園:理事長挨拶より抜粋
https://www.myojogakuen.ed.jp/about/greetings



こんな理想論を目にすることがあります。


「みんなが同じ方向をみて、みんなが幸せに!」


このスローガンを掲げる人がいるとすれば「何も考えていない発言」と捉えられても文句は言えません。

資本社会というのは、その根本的な仕組みが資本の椅子取りゲームです。

アテンション・エコノミーと呼ばれる時代、人々の関心や注目が資本経済価値を持つ時代。

誰かが関心を集めれば、その分だけ、まったく無視される人もいる。

世の中の価値をすべて「勝敗」で決めると言うのであれば、

「明確な勝ち負け」が存在してしまうことになる。


noteは、主に「20~40代のビジネスパーソン」がメインのコミュニティ層とされています。

「勝ち負け」に敏感なユーザーが大半。
彼らにささる言葉の研究や活用、調査を持続的に行い、書く。
そうした「努力」を積み重ねて来た人々が、noteに流れる注目・関心(アテンション)資本の中から「より多くを切り取る」ことができる。

目的が資本稼ぎであるならば、そこに尽力をすればよい。それは自分自身の持つコンパスと、いままさに航海している船(自分のコンテンツ)が一致しているということですから。

しかし、目的が自己実現の為であれば、発想を転換しなければなりません。

まず大前提として「自分が資本経済の流れの中にいる」ということを観測する必要がある。

それでもなお、枠組の中から多少なりとも逸脱した「座視」を持つこと。

そこではじめて、

「考えること」


ができるのだと、私は感じています。


・・・

では仮に「幸せの椅子取りゲーム」が存在するとしましょう。
全員が平等に幸せになるためにはどうしたらいいか。

「全員が違う方向をみて、みんなが幸せに!」


が、唯一成立する文脈です。

もしも理想論をホンキで訴えるのであれば、多様化を全力で推し進める。

その実現の為に行う活動が、もっとも真摯で真面目なものとなるでしょう。

お金や関心の量は、もう世界全体で決まっています。
それらが幸福に代わるのだとすると、かならず椅子取りゲームになり、不幸な誰かが生まれるのです。


・・・

目的がずれてはいけない。


noteを始めるにあたって、目的はなんでしたか?

私はまだブログという媒体をはじめてみて、2週間ほどしか経っていない若輩も若輩です。

当初は、自分の勉強のアウトプットの場所として活用できたらな~くらいの目的で始めました。

ですが、わたしの場合、知識や知恵が記憶に固着化させること、が本質的なアウトプットの目的ではありません。

思考をリフレッシュし、その先に眠る自分自身の価値観や存在意義(レゾンデートル)、果ては社会的に抑圧された感情の開放であったり、社会の一員として生きていく上での、ある種、いつの間にか勝手に課せられた”縛りプレイ的思考”からの脱却だったり。

自身の存在意義を定義しなおすような、非常に哲学的な効力を持つ行動。

それが私にとって”ブログを書く”ということなのだと気付かされました。


・・・



結局流されそうになる。にんげんだもの。


たとえばPV数であったり、スキであったり。

「読まれない記事はなんの意味もない」

と断言されてしまう風潮であったり。

正直、サービスには需要や供給を視覚化する仕組みが用意されています。

こうした大きな流れの前に、個人の意志は無力であるとも感じています。

  • スキを取りに行くためには、このセンテンスじゃだめだな…

  • うわぁ~~~わたしのPV数ぜんぜんだめだめじゃん…

  • なんで私書いてるんだろう…

  • このnoter様のテクニック、わたしにも使えそう!

  • また読みにくい文章書いちゃったよ…わたしってホントダメ…


まるで仕事帰りに(あ、ファミチキ安売りしてる…ダイエット中だけどちょっと買って行っちゃおっかな…)みたいな誘惑が、帰り道のファミマ20店舗くらい続いてるみたいな感じです。

note界隈には、そこかしこに誘惑が待ち受けているのです。

そうして本筋からそれてしまい、どこかに「自分のコンパス」を落っことしてしまう。

誰のものとも見分けの付かない一隻の船が、また一つ、noteの海上をさまようのです。


だからこそ。「考える」


noteに集結している知識の数々は、間違いなく実践的なものです。

中には、信じられないくらい面白そうな企画だったり、文才のつむいだ知的刺激物だったり、はては私の趣味であるマーダーミステリーの純粋な体験記だったり、場末感の漂う閑散としたnoter様の一文であっても、猛烈に惹かれる何かをかんじたり。

逆に惹かれない文章であったり「卑怯だ」と感じてしまう文章は、それらと何が違うんだろうか。

「良い」「悪い」「正解」「不正解」とは、どういった「座視」から世界を観ている場合に発生するんだろうか?

「書くこと」に悪いことがあるとするならば、なぜその行いが「悪」になっているんだろうか。

これらを時間をかけて、考える。


考える為のnoteが、わたしにとって、意味のある「note」なのです。


・・・


ちなみに「書く」とはそもそも一体なんなのでしょうか。

気になったので、AI君に「書く」についてちょっとだけ教えてもらいましょう。


書く、という文化が生まれた背景を教えてください

書く文化が生まれた背景には、以下のような要因がありました。
・情報を記録し、次世代に伝える必要性
口頭での情報伝達には限界がある中、文字を記して情報を蓄積・継承することができるようになりました。
・政治経済的な必要性
文書管理を通じた国家システムの確立、交易記録などに書き言葉が欠かせませんでした。
・物品生産の効率化
文字による設計図や手順書が、製作ノウハウの共有化をもたらしました。
・宗教的動機
文字で神話や聖典を記録することが、信仰の継承と強化につながりました。

Claude2

文字の発祥については、以下のような説があります。
絵文字説 実物の形や数を表す絵から変化したという説。最も有力視されている。
符号説 占いやお祈りなどで使う呪術的な図案が起源だとする説。
声まね文字説 人間の口から出る音を、視覚的に表現したのが文字の起源だとする説。
文字の起源を具体的にたどれる最古の例としては、メソポタミア文明の楔形文字が知られています。これは紀元前3千年紀ごろから使用されたmemcache性の文字で、土器などに刻まれた楔(くさび)形の印影から発達した文字と考えられています。
世界最古の文字はまだ確定できておらず、現在も活発な調査と研究が進められている最中です。古代文明で使用された文字の起源や変遷の解明が大きな関心事となっています。

Claude2

さて、

AI君の説明を読んで

  • 「書く」という行為が、何か神事的あるいは儀式的な意味を孕んでる。

  • 信仰の継承や強化など、宗教的動機の為に生まれた可能性があること。

  • 次世代へのノウハウの伝達の為であること。

古代のテクニックといえば、呪術、祈祷、占星
こういった伝承の為の記録媒体として、絵を描くこと、転じて文字を「書くこと」

さらに立ち返れば、「神」という目に見えない存在を表現するための手段だったと、私は考えました。


時代とともに神の意味合いは変化しています。

現代においては「全ての執行者であり代行者」というイメージが優勢な気がします。AIが神を代行するシンギュラリティが訪れるのではないか、そんな話もちらほら耳にするようになりました。

一方で、具体的な形が見えてきた現代の神と違い、ある意味で、過去の神は人の内側にある妄執的な存在だったともいえます。

人間の中に漠然と潜んでいた畏怖や感動に「神」という名がつく。
誰かが「絵」を用いてその姿を描き、「文字」で伝承として共有され伝わっていった。

神はもともと外側にいたかのようなイメージが私達にはあります。
しかし「書く」という文化の背景を学んだ上で見方を変えれば
「人の内側から、神が外に解き放たれた」とも捉えられます。

書くというのは、その人の中に眠る、一種の神聖が表に露見する瞬間なのです。

(※人によっては矛盾に感じるかもしれませんが、私は思考の補助によくAI君を使っています。
今回の場合。「書く」という文化に対して知見が浅いので、より深く考察をするためにヒントや史実を教えてもらう、という感じでしょうか。

あくまで、人の意見や外部の情報は「考えるための補助」であって「考え方そのものにしない」ように気をつけています。このあたりの情報の取り扱いは慎重にと心がけています。)


書くという行為は、自身の内側の世界を顕現させる手段。


「読まれなければ、書く意味はない。」

考えなしにこう記述する事は、きわめて浅はかです。

  • それがお金に直結しないから。

  • 社会人として世の中に価値を提供できないから。

  • ただの壁打ちだから。

では、これらを満たさなければ文章をインターネット上に書く資格も意味もない、のだろうか。そんなことはない。もしも大真面目にそう言っているのであれば、視野狭窄に陥っていると断言できます。

もちろん「自分の”子”でもある文章が読まれなければ、自分自身の存在意義(レゾンデートル)がどこかにいってしまう」といったような感覚は、とてもよく理解できる。
注目されないことは、恐ろしい。耐え難い。生きている意味を感じない。
そう感じる人がいるのも、まったくもって賛同できる。

こういった「恐ろしい!」という内的な恐怖を描き出す為に「読まれなければ、書く意味はない。」と表現したのであれば、それは素晴らしい執筆活動だと、わたしなら捉える。

万人に押し付ける気概で書いたのであれば、それこそ「ちょっと議論をしようか」となるかもしれない。


だからこそ。考えて書くことは大事だ。


テクニックではなく、自分自身の中に眠っている世界を、外在化させる為に書く。

書くことは、大きな意味をもつ。

だから私は、一般的でない内面を如実に書き出した文章、その神聖に惹かれる。

そういったものにドンドン触れていきたいと「考えて」いる。



noteという船旅


すごく詩的な帰結に陥ってしまうのだけれど、

noteという大海原を旅する内は、いろいろな誘惑が世の中に溢れていることに気づく。

時に堕落し
時に権力に溺れ
時にお金がすべてだと思い
時に関心が全てだと思う

その社会の中で、一見すれば放蕩的な行動をしている人がいる。

  • 意味がない。

  • だめなやつだ。

  • あんなやつにはなるな。

それでも

  • すべてに見捨てられようが一人で海に漕ぎ出したジャック・スパロウのように

  • 平穏・安全と共にドレスを脱ぎ捨てたエリザベスのように

  • 自分の正義を貫き、悪魔の船長となったウィル・ターナーのように

自由と個性を愛して、旅を続けていきたいものです。


さて、あなたはどんなコンパスを持って、この海原を漕ぎ出しているでしょうか?

そのコンパスは今はどんな形をしているのでしょうか。

それとも亡くしてしまったのでしょうか。

あたらしいコンパスはどんな形をしているでしょうか。

私は、そんなお話が聞いてみたいのです。





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