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「孤独発生警報機」こと、ウチの猫ちゃんのお話。


友人から「これ、読んでみて」と雑誌の情報が送られてきた。

月刊PHP 2024年3月号 (月刊誌PHP)

「ひとり」を楽しむ
「孤独」を味わう

わかり合える人がいなくてさみしい、誰かといてもさみしい――。どんな立場であれ、孤独と無縁な人はいないのではないでしょうか。あるいは人間関係に疲れていたり、忙しさのあまり自分を見失っていたら、ひとりになることは癒やしになるかもしれません。

月刊PHP 2024年3月号 (月刊誌PHP) amazon紹介文。

異職異業種、さまざまな人たちが一堂に会したようなエッセイ集。

後読感は、まるでnoteを読んでいる時のそれ。どの作品も体裁が整っており、思わずハッとさせられる表現がそこかしこに散りばめられている。

もしも、ここに収録されている作品がひとつひとつnoteに掲載されていたならば、もれなく全部にスキをつけて自分のマガジンに放り込んで、心に染み込むまで何度も何度も読み直す。それほどの良雑誌でした。


特に今月号で触れられているのは「孤独」との向き合い方について。

平穏な生活を中でも、前触れ無く心にポッと湧き出る感情。ありふれていながら、誰の心の中にも必ず顔を覗かせる「孤独」と人はどう対峙しているのだろうか。そんな心の内を明らかに綴ったエッセイ集です。

そして本誌のテーマになっている「孤独の味わい方」
これに関しては「万人向けの正解ってないんだな」って、改めて思いました

このエッセイ集のストーリーテラーさん達は、まったく異なる人生をそれぞれ歩まれてらっしゃいます。だから、そのまま孤独の形だけを屋台の型抜きみたいに切り取って自分に適用、なんてことはできません。

これはヒント集なのです。自分の中にある「孤独」への憧れや焦燥の輪郭を掴む為の試金石。「死生観」ならぬ「孤独観」

どなたの「孤独観」を自分にあてがったら、キレイな火花が飛び散って、自分の殻をちょっとでも破れるだろうか。そんな使い方が良いのかな、なんて。

今まさに自分の孤独を殻の外にさらけ出す。
そんな文章を書こうと、私は筆を取っています
(筆というか、キーボードだけど🐈




「孤独」への、あふれる憎悪

私にとって孤独はごくありふれたものでした。

高校上がりたての頃、父親が失意の果てに自殺、母親は再婚し、家を離れました。居場所を求めて心は常にざわめきだっていましたが、そんな状態で人にやさしくなれるはずもなく、周囲との軋轢はひどくなる一方。

イジメや無視、無理解、社会からの隔離。そんなことを恒常的に受けていました。

当初は「孤独」に対して、激しい憎悪の念すら抱いていました。

「全部が私を、孤独にした。
 間違っている、こんな孤独など、あっちゃならない。
 孤独など味わうべきではない。」

「孤独」を余儀なくされた私は、いつも孤独に怒っていました。

私の席を勝手に奪い取り、堂々と足を組んで座っている孤独ソイツを、なんとか引きずり降ろしてやろうと、日々罵詈雑言をぶつけていました。

すると不思議なもので、自分の内面だけに起こっていたと思われた現象も、現実世界に及んでくるんです。実際の人や友人、家族の中に勝手に「孤独」を投影して、ぶつけてしまう。

「お前たちのせいで・・・!お前たちのせいで・・・!」

そうして、離れていく周囲の人たち。むしろ、誰よりも嫌ってるはずの「孤独」とどんどんと親密にならざるを得ない有様でした。


・・・


俗に言う「うつ病」だったでしょう。

ですが、ほとんど天涯孤独のような生活を送っている私にはどうすることもできませんでした。自覚もできず、煮えたぎる感情のるつぼと深い絶望感の中、せめて人を傷つけないよう自分の部屋に籠もる選択肢をとっていました。

多分、苦しまなかった日はありません。

毎晩、この「孤独」と取っ組み合いの喧嘩です。

「でていけ!でていけ!お前がいるから私は不幸なんだ!いますぐでていけこの疫病神!」と。

そうして迎えた朝には、いろんな液体でぐしゃぐしゃになった枕や、ところどころ破けたシーツ、無様に散乱した衣服や、デジタル時計のひび割れた液晶。決まってそういうものが残される。

ベッドの横に目をやると、私の狂乱具合などなんでもないような様子の「孤独」が、私をニヤニヤと迎え入れるのです。

それはもう、地獄などという表現では生ぬるい日々です。今だからこそ、カラッとお話ができますが、何度も自殺未遂を繰り返しています。

「命」と「孤独」がいつも両天秤に乗せられている。ギリギリの均衡をたもてていたから、私はなんとか生きながらえていました。今も割合とそんな気持ちを頭の片隅に住まわせながら、日々生きています。

「孤独」への変化

社会人になってから、診断だけで私は4回はうつ病(社会不安障害とされる事が多かった)を患っています。

でも、お薬を無遠慮にさしだされるばかりで、クリニックや心療内科には苦手意識しかありません。
だから、食い扶持がなくなるギリギリの時、または仕事を辞めるための診断書を書いてもらう時だけ受診します。

あとは家で、セミの幼虫みたいにジッとする日々を過ごしていました。

ですが、あえて社会や世間から自分を隔離させ始めた時。
私と「孤独」との関係に大きな変化が訪れます。

職場、友人、家族、周囲との関係性が次々を途切れていくと、やはり最後には「孤独」が残るわけなのですが、不思議と過去に抱いたような嫌悪感はないのです。

まるで一緒に仲良くテレビを見たり、買い物にでかけたり、むしろ一心同体となった誰かと生活を共にしている気分だったのです。食卓の向こう側に、目には見えないけれど孤独が座っている。

「あぁ、どうあっても孤独はそばにいるんだ」

ただその事実を、受け入れることができたのです。

いえ、安心感とか、実感とか。そんなものも、ないのです。
どちらかといえば意識の外側。周囲との関係性に悩みに悩み抜いている時の情動に比べて、凪の中に佇んでいるように何もない。なにもないのです。

なんというか、「ない」が「在る」

そんな心情でしたが、その平穏が私には何よりも変え難かった。

いつからか「孤独」に、少しづつ癒やされていました。

ある日、うちにやってきたネコちゃん

いくらか孤独と和解をした頃、ひょんなキッカケからネコを飼うことになりました。
巡り巡った「保護猫」を偶然にも譲り受けることになったのです。

うつ病がある程度寛解すると、私は「孤独」から離れてまた社会の中に身を投じねばなりません。

でも「孤独」と仲良くなったからといって、周囲との人間関係が劇的に変わるかといえば、そうではない。むしろ孤独に寄り添いすぎた人間にとって、地域社会は生きづらさの温床です。

どこにいても誰と在っても、私の心のざわめきはいつも途方もないパワーを放とうとする。私は、それを押し込めるのに必死。

疲れ果てて家に帰ると、いつも愛猫が迎え入れてくれます。

撫でて、吸って、お世話して。

人懐っこいこの子は私から離れることはせず、頭を私のひざっこに擦りつけて、元気いっぱいに鳴くのです。

…まぁこれは人間の都合がいい解釈ですね。多分シンプルに「おい下僕!どこにいってたんだ!早く餌をよこせ」くらいかもしれません。

・・・


この子を引き受けてからというもの、希死念慮は大分薄れた気がします。

といっても、もともと毎日死にたいと思っていたので、そういう思念が発生するのは相変わらずなのですが、この子の姿を見る度に、サッと思考が引き止められるのです。

「死にたいな」とふと頭に浮んでしまった時、いつも隣にいる「孤独」も、このときばかりは大きくかぶりを振るんです。

「この子を孤独にさせちゃあいけないよ」

孤独は、私にとって良き理解者でもある。それでも、万人に受け入れられない存在であるとも良く知っている。

孤独は時に、人を狂わせる。そういった二面性をいやというほど見てきた。だからこその「孤独」なりのメッセージなのかもしれません。

なんだか、私にはそのかぶりを振った「孤独」がひどく悲しそうな顔をしているように思えたのです。周囲からの理解を得られない私みたいに、孤独自身も、誰からも理解を得られない。

いや、「私の孤独」は結局のところ「私」にしか理解できない。

孤独がいつも隣に居たと思っていた。しかし、逆にいえば、孤独の隣には私しかいなかった。「孤独」もまた「孤独」なのかもしれない。そう、私は漠然と思ったのです。

きっと、他人の孤独だって、私の孤独とはまったく姿かたちが違う。同じものは何一つとしてない。ゆえに孤独も孤独なのでしょう。(孤独孤独言いすぎて若干ゲシュタルト崩壊中。



「孤独発生警報機」ことネコちゃん

もともとこの孤独って「無いが在る」ようなものです。

相当に意識しなければ、たちまち立ち消えてしまう。むしろ、姿が見えない時のほうが、ある意味で幸福なのかもしれない。「孤独」が姿を表さない日々というのは、一見して人に囲まれて和やかに過ごしているように見えるでしょう。

でも、やっぱり人波の中で生活すれば、心はちょっとづつ廃れていく。相変わらず、私は社会の中ではまったく上手に立ち回れていません。

ニコヤカに過ごしている時、大体私の心は大雨洪水警報発令中。

ささいな人間関係に突き動かされ、学生時代に抱いたような怒りや怨嗟が心を埋め尽くしそうになる。そうして、何を学んだのか「孤独、お前のせいでまた私はこんなにも苦しんで…!」と、同じ過ちを繰り返そうとする。

「にゃ~」

そんな時、ウチの子が肩をトントンとしてくれる。

正確には右の二の腕の下の方。椅子に座っている私に向けて、床から精一杯に上体を伸ばし前肢も目一杯のばして、私の腕に触れてくれる。

ハッとなります。いえ、この子からしたら「餌くれ」とか「遊べ」とかそんな些細なことかもしれません。でも、根詰めている時や孤独に囚われそうな時、決まってこの子は私に呼びかけてくれます。


・・・

重要な作業であっても中断して、目一杯撫でる。両の手で包み込む。あちらも私の手を無遠慮に引き寄せて、ガジガジと噛みつく(ちなみにめっちゃ噛む子、おかげで私の腕はいつもミミズが這っている。)

ゴロゴロと喉を鳴らして、頭を猛烈に押し付けてくる。勢い余ってコロンとでんぐり返しして、私の両膝の間にすっぽり収まったり。いつもは嫌がるはずのお腹を、その時は珍しくわしゃわしゃとこねくりまわすことを許可してもらえる。

能面みたいになっていたであろう、私の表情筋がほろっと和らぐ。


この子との時間を堪能すると、孤独への憎しみが、とんと晴れる。

悪感情が、はらはらと解けていく。


なんだかこの子が私の「孤独」を察知して、注意報を発令してくれてるような、いえきっと錯覚なんですけどね、そんなことを思ってしまうのです。

「孤独」はいつだってすぐそばに


物覚えの悪い私は、じゃあ孤独と100%仲良くできているかというと、そうではない。

例えば、その時その瞬間に最愛の人だと感じたとしても、人生のステージが進んでいくにつれて「重荷」とすら思ってしまうことがある。

君が好きなんだ。放っておけない。捨てられない。捨てたい。でも愛している。いや愛していた。愛せなくなった。いやそれでも、やっぱり愛したい。でも前に進めない。置いてくしかないのか。でも本当はどっちなんだ。愛せない。愛したい。

孤独との付き合い方もソレと、ちょっと似ている。

かってに家に入ってくる。せせら笑う。取っ組み合いの喧嘩をする。追い出す。でも戻ってくる。厄介だ。でも最近はちょっと許せる。まぁいてもいいか。お前しか居ないみたいだ。ありがとう。いや、やめてくれ。今の私にはお荷物なんだ。たのむ。でてこないでくれ。引っ込んでいてくれ。でも、感謝してるんだ。君がいると、うまくやれない。でも君がいたから生きてこれた。

複雑だ。

私の孤独に対する感情は、いまだにビックベンの巨大な振り子みたいに揺れ動いている。人生のどこを切り取っても一定じゃない。最悪な時期に直面することだって、たくさんある。

そんな時に、ウチの子は「トントン」として「にゃ~」としてくれる。

・・・


そうだね。

「自分の孤独」を分かってあげられるのは、自分しか居ない。そうしてこの子を撫で返しながら、何度もこうして立ち直らせてもらった。

孤独は、いつだって隣にいるんだって。私がどう思おうが、どう感じようが、孤独が離れることはこの先絶対にない。

荒れ果てていた頃の私に比べると、周囲との関係性も良くなってきた。孤独との関係性も、同時に穏やかなものに代わりつつある。

家に帰ったら缶ビールを片手に、おなじく対面に変わらず座っている孤独そいつと小さく「乾杯」とするような、そんな共同生活を送っている。

でも、やっぱり喧嘩しそうにもなる。急に現れて、心臓に悪いそいつにアタリそうになる。

だから、ウチのネコちゃんは、私がびっくりしないように、ちゃんと報せてくれるのだ。トントン、にゃー。

この子は、私にとって「孤独発生警報機」

私の命を支えてくれる大事な家族。

いつもありがとうね。今日はちゅーるタワーにしよう!



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ここまで読んで頂き、ありがとうございます✨

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