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#ぜんぶ君のせいだ #メイダイシンギ 極私的レビュー

ぜんぶ君のせいだ。の待望のNewアルバム。
と、ありきたりな書き出しも、奇を衒った書き出しもどうせ数年後には○ックオフで100円で売られるようなク○新書みたいで性分に合わない。
全国ツアー"ROAD TO BUDOKAN"の秋田公演に行った10月下旬頃は「ライブはとても楽しかった。でもせっかく武道館を目指しているのにここいらでもうひとつアクションが欲しいよな。たとえば新曲だったり。DEADENDprisonerはともかくとして虚虚実実IMFはほとんど披露されてないし、これが最新曲のまま武道館を目指すのは心もとない…」と感じてたら、アルバムJKTの知らせを受ける。
「メイダイシンギという7thアルバムを発売するよ」との知らせは秋田公演の一週間前にTwitterでも告知されていたそうだが、それは見逃していてしまっていた。不覚の極み。
それでも僕はぜん君の新曲を待望してたことに変わりはないのだが。

リリース及びフラゲ日の前週のオンラインリリースイベントではアルバムの新曲も披露されたが僕は仕事からの帰宅で配信には間に合わず…
しかしフラゲ日よりも早くにCDが自宅に配達されるそうなのでメイちゃんからの歌詞カードメッセージつきを注文した。
フラゲ日よりも前にCDが届いた。毎度チェキなどを注文しているレターパックがいつもより少し分厚い。"プチプチ"(エアパッキン)で包装されたCDを取り出しプラケースの透明フィルムの紐状の部分を引っぱり歌詞カードが折れ曲がらないように引き出す。ディスクをトレイに載せてパソコンに保存してクラウド経由でスマホにも保存する。
カセットテープにダビングしていわゆる"ウォークマン"で聴いてた昔と比べて随分と便利になったし、今の僕のこれらの儀式すらせずにサブスクリプションでも音楽を聴ける便利な時代だ。
しかしそれでも僕はCDというマテアリズムを介して歌詞カードのついたCDに愛着がある。さすがにアナログレコードの世代とまではいかないが、彼らが塩化ビニール盤にこだわる気持ちも分かる気はする。

カタカナで「メイダイシンギ」と描かれた金属的に黒光りするタイトルが飛び込み、カタカナで「メイ」と描かれてある形状からしてわくわくしますね。
そしてバックに水面に鏡映しにされたように浮かび上がる上下のそれぞれ別の四文字熟語。よく見るとそれは古代文字フォントで「命題真偽」と「鳴題心戯」と、それぞれ「メイダイシンギ」と読めるのがわかる。いわゆるそのタイトルの表テーマと裏テーマであろう。
ちなみに僕はその四文字熟語が判明する前は「命題信義」それとも「命題審議」かな?と思っていた。

そのフォントの後ろにはおそらく女性であろう一人の人間の胸像。その顔の部分は無数の花で隠れていて、デコルテ部分には6人の顔が浮かび上がる。
天上からは6本で6色の点滴バッグがぶら下がり6色の液体が無尽に散らばっている。

ジャケットを開いてディスクを手に取る。ジャケットにも描かれている点滴バッグがディスクでも吊り下がって描かれていて、銀盤いっぱいに大きな円が描かれていて、その円は弧をなぞるように炎のように何かが外側に放出されている。この様子で思い浮かべたのはbauhausというイギリスのバンドのアルバム「THE SKY'S GONE OUT」(1982)のジャケットだった。
当時この写真を見て僕は、生命の誕生の瞬間の顕微鏡写真かな?と思ったが、「Exquisite Corpse」という歌の終わりに「The Sky's Gone Out(空は消えた)」とそのタイトルとなったフレーズを連呼しているので、皆既日蝕あるいは皆既月蝕をモチーフにしたと考えるのが妥当だろう。

左がぜん君。右がbauhaus。しかしそれにしては真ん中を覆う丸い黒点の大きさが自分の知ってる日蝕や月蝕とは異なるという不思議なジャケットだ。

そんなところに僕の極私的な共通項を発見したりしてドキドキしている。
がしかし、このメイダイシンギのそれは、点滴バッグという医療機器のモチーフもあってか、ここ数年世界中を震撼させている感染症──全世界が闘い克服していかねばならない「命題」を描いているようにも見える。
ところが歌詞カードの中を開くとそのスケールの印象がまた一変する。歌詞の背景に映る地球とおぼしき惑星の荒涼とした地平線が描かれ、やはり盤面の丸いものは、私たちが棲む惑星なのだろうか?かと思えば「THE SKY'S GONE OUT」で感じた「生命の誕生」のようにも見える。
きっと正解はどこにもなく、しかしどれも正解なのかもしれない。
そんな謎解きみたいなところから僕の「命題審議」は始まっている。


ICE CREAM REBEL

タイトルを見た瞬間「メイちゃんだ!」って。
「ICE CREAM」は文字通りアイスクリーム(氷菓)でもあり「I scream」でもあるのだというダジャレ。「なるほとそうだったのか!」と目からウロコが落ちる人も居るかもしれない。しかし榊原郁恵の「夏のお嬢さん」という曲を知ってる世代だとそれはすぐに連想される言葉遊びなのです。
と言っても井森美幸とお料理作ってるイメージのあの郁恵さんがスクリーム!?とお思いかもしれませんが、全然そういう曲ではないので 笑。
しかしアイスクリームと聞いて「ほっとくと溶けてしまう儚さ」なんかも連想するのですね。

CDをトレイにセットして歌詞カードを開いて飛び込んできた全く聴いたことのないタイトル、そしてイントロからアルバムが開幕するこの緊張感。
ここんところコドメンのリリースするアルバムといえば、一曲目は先行シングルなどで披露されたいわゆるリード曲で勢いづける感じの作品が多かった故に尚更。
このわずか数小節の間ほんの数秒の瞬間に。
アルペジオギターから始まってゴリゴリのスラップベースが絡み16ビートの都会的なファンクへと展開する。今までのぜん君のライブの一曲めだったり熱量だったりを思い起こしても、このイントロはまだ見たことのないぜんぶ君のせいだ。を予感させる。
ベースなどが重なり合って多層のアンサンブルになってゆく様は、今後のぜん君の新時代の始まりを予感させる。この感触はLUNA SEAのアルバム「MOTHER」におけるM1「LOVELESS」にも似ている。

「LOVELESS」の映像の中でもこれは特にバンドアンサンブルが重なっていく様を、各パートの肝となる部分に実に絶妙なタイミングでカメラをパンしている。バンドをする者にとって神カメラワーク&スイッチングだと思います。

やはりぜん君のライブはバンドセットで観たいな。

さて、ICE CREAM REBELに話を戻すと、いわゆるAメロとBメロの静と動がなかなかトリッキーで、疾走感とは真逆の気持ちよさがある。ベースラインもゴリゴリしていてスラップはもちろんハンマリング・プリングやグリッサンドにチョーキングなど、なかなかエグいことになっているが聴けば聴くほどそれに挑みたくなる。

中学生の頃の僕といえばとにかく疾走感こそが命みたいな聴き方をしていたので、新アルバムの一曲めがこんな感じに始まると当惑していたはずだ。いやその後ベースを始めたりして音楽への探究心というか、背伸びしたい気持ちでこれが耳に飛び込んできたとしても、このアレンジをいいと思っていたかどうかは疑問符だ。
そこで思いだすのはBUCK-TICKの「darker than darkness」の「キラメキの中で…」だったりするのだ。8ビートばかり聴いてた僕にいきなりDUBなんて分かるはずもなく。

しかしのちにその「darker〜」も「キラメキ〜」も好きになるのだが。今にして思えばあれは創り手側からリスナーへの挑戦状みたいなものなんだなと。

そしてこの「ICE CREAM REBEL」もぜん君からの挑戦状であり、ぜん君自身へのチャレンジ宣言とも思える。今までずっと応援してきた患いさんだけでなく、今からでも新しいファンを取り込むという意欲をこの新しい音楽性に見出そうとしていると思ったし、新しいファンをも巻き込んでいかなくては武道館の席など埋まるはずもないのだから。
CDもチェキ券も一人あたり何枚も購入できるが、席を埋めるにはそれだけ多くの人が集まらなければ物理的に到底無理なのである。
しかし怯むことなく、その目標へと邁進していってほしい。

昨今のアイドル界隈では「楽曲派」は揶揄され軽蔑される対象になりがちだが、それでも僕は「楽曲派」として在りたいと思うし、新しいファンとなりうるものは結局のところ「楽曲」なのである。

DEADENDprisoner
この先行シングルが事実上のリード曲と言っていい。件のLUNA SEAの「MOTHER」における「LOVELESS」を本作の「ICE CREAM〜」になぞらえるならば、この「DEADEND〜」の華やかさは「ROSIER」的な(←お前そればっかだな)。
イントロの「虜で、共犯。」では全員の声を重ねてあるはずなのだが、雫ふふの声の配合率が高いように聴こえる。それは今になって喪失感がそう思わせるからなのではなく、ただ平和に過ごして聴いていたシングルリリースの頃からの印象である。リリイベやライブでもふふの印象を強く感じていた(それは主観もある)
このブログほとんど主観だが(爆)

https://youtu.be/aPF34X-vFGQ

リリイベで初めてこの「DEADEND〜」を聴いたときメイちゃんに「これ水谷(和樹)さんの曲なんだね、なんか意外だな」って感想を伝えたんだけど、それは僕が抱いていた水谷さん流の旧来のぜん君の曲とのギャップであって。
しかし聴いてくうちにバックでパーカッシブに鳴っているエレクトロ系のヒューマンボイスやブリッジにかけてバンドサウンドがミュートされるパートの音色は、星歴13夜で繰り広げてきてた"もうひとつの水谷さんワールド"であり、シングル盤にはinstrumentalが収録されてるので、0'24"〜のAメロからBメロに差し掛かる「Let's go」だったり、1'41"〜あたりを聴いてみていただきたい。
2choのBメロで「どんなことがあってもいい」というメイのパートのバックで「おっおお おわわお おっお…はいっ!」みたいに半ばボン・ジョヴィのLivin on a prayerのトーキングモジュレーターのワウ的に使われている。このAuto-Tuneで加工されたかのようなヒューマンボイスは星歴のいくつかの曲でも用いられていて、それは寝こもちの声をサンプリングして加工したかのようにも聴こえる。
もしかしたら星歴結成時に一人歌唱力が抜きん出ていたこもちの声を、普通に歌唱パート増やしてしまったら他のメンバーを推す人たちから嫉妬を買うのではないかと配慮してこのような形にサンプリングしたのではないかと妄想までしてしまう──
それくらいに、その音色にはこもちの色を感じてしまう。

つまりそれは、メイと个喆が加入した「堕堕」でシャウトを積極的に盛り込んだ時のように、寝こもちがぜん君に加入して初めての新曲なので、こもちの楽夢子(らむね)色を楽曲に盛り込み、ぜん君の音楽性に「新しい風」を息吹かせたのかな。と。


「新しい風」とは───
ゆくえしれずつれづれの◎屋しだれの言葉である。
遡ること2017年の頃、つれづれはしだれ・小町・子子子・艶奴の4人だった。しかしそこから子子子が脱退して3人で活動する日々が続いていた。
3人のライブも徐々に様になってきて、小町も艶奴も「このまま3人でもいいかも」と言っていたし、メンバーチェンジを繰り返すことが当たり前のアイドル界隈にはうんざりしていた僕もまた、小町や艶奴と同じ気持ちだった。
ところがしだれは「でもつれづれには新しい風が必要ですの!」と言っていた。
まだ見ぬ者への不安──
つれづれが大好き故に"つれづれらしさ"が変わってゆくことを僕は恐れていたのかもしれない。きっと小町も艶奴も。

そして明くる年の2018年のBY THE AVANTGARDEツアーからゆくえしれずつれづれの新メンバーとしてデビューしたのがメイユイメイだった。
彼女はひときわ小柄だったが歌への意欲とぱわふるさとしなやかさとその愛嬌で、つれづれに「新しい風」が吹き始めたし、しだれも艶奴もそして小町も笑うことが増えたように思えた。
そんなメイユイメイが来てくれたこそ「Exodus」という曲が生まれたと思っているし、その後のメイちゃんの三面六臂の活躍は言うまでもない。
あの時のしだれの確固たる意志は決して間違いではなかったし、こんな逸材に巡り会えたことも類稀なる奇跡だったに違いない。
───
ゆくえしれずつれづれにいたメイユイメイと个喆が加入したばかりの頃の僕は、ぜん君の曲に向き合うことができなかったが、その二人の加入初新曲の「堕堕」もスクリームを意欲的に採り入れてsyvaさんがぜん君に新しい彩りを与え、そうしてぜん君が化学反応を繰り返しながら進んできたんだなと。
僕も当時からちゃんと向き合ってオンタイムで「堕堕」や「Flashback Nightmare」を聴けていたら───などと戻らない過去にifを投げかけてみたりもする。
井上陽水は「人生が二度あれば」と歌っていたが、たとえもしも僕の人生にやり直しやゲームリセットができたとしても、僕は同じ過ちを犯して同じ傷を負って同じNightmareをFlashbackさせてるんじゃないかな。
まあ死んだら灰になるだけだと思ってるし、もしも僕の魂という概念が現世の記憶を封印したまま来世で再生されるのならば、大好きな人はどうか幸せになってもらいたいと願う。

DEADENDprisonerに話を戻すと、ブレイクパートからラスサビへ向けてのマーチングドラムからベースのスイッチが入ってラスサビに突入する様も、いいアクセントになってて聴けば聴くほど味わい深い曲だと思います。

ギザトゥンク%
先日作詞家のGESSHI類さんがプロフィールに記していて気になっていたワードが使われている。
トゥンクとはきらめきやときめきの感情表現するときの擬音としてインスタなどで流行しているいわゆるネットスラングだそうですが、僕はそっち方面は割と疎いので、ふかわりょうの「ティン!」みたいな感じかな?と捉えています。
ギザという言葉を「very〜」「とても〜」的な語感で用いるのは、しょこたんこと中川翔子以来だと思う。しかし歌詞ではその後、「ギザギザ × 割れる」と歌ってるので、そのニュアンスは「very〜」よりもむしろチェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」や水谷豊の「カリフォルニア・コネクション」の「ジグザグ気取った〜」に近い擬音的なニュアンスなのかもしれない。  
1'13"~あたりの「焦がれ落ちる自由〜♪」とファルセットに入って「由ぅぅ〜ゥ♪」と語尾を抜くかさねちゃんもたまりませんね。
サビのあとの早口で畳み掛けるポエトリーリーディングでは雫ふふがフィーチャーされている。
責め立てられてるように聴こえたかと思ったら「奈落の底まで突き落として最後にKissを…」と甘えた声になるのがツンデレの茶番劇みたいでなんともかんとも…たまりませんわね。
その後の落ちサビのメイちゃんのウィスパーも後ろで鳴ってるドラムのリムショットとアルペジオギターとベースとのアンサンブルもまた、LUNA SEAのEND OF SORROWあたりのグルーヴ感を彷彿とさせ、これまたたまりません。

そしてこの曲の最後で雫ふふが「君が閉ざす希望〜ぉぉぉぉお!」と振り絞るように歌い伸ばし上げるパートもまた印象的だ。
彼女は声質にパンチはあまり無くメイ个喆かさねのようにシャウトパートを担当することは殆ど無かったが、それでも僕がふふに惹かれたのは彼女のひたむきな姿だった。

ゆくえしれずつれづれも今となってはコドメン随一のシャウト・スクリームを得意とするグループとしてその歴史に名を遺したが、かと言ってそれが技巧的では決してなかった。本格的なシャウトもグロウルも自在にこなすヴォーカリストなど数ほどいるし、アイドルの顔して平然とやってのけるグループも増えてきた。
しかし僕が惹かれるのはテクニックよりもスピリットなのであって、つれづれの魅力はそこにあったのだと今でも思っている。当時はしだれが2歩も3歩も抜きんでいて、小町推しの僕でさえもしだれのシャウトは心を刺してくるだけのものがあった。そんなつれづれは全員がシャウトするところがアイデンティティーでもあったが小町はむしろシャウト以外のファクターでつれづれの世界の核となっていたと思っている。
しだれが抜けたあとは主にメイがそれを牽引し、今となっては各グループにシャウトをリードできる逸材も増えてきて楽曲のバリエーションも豊かになった。

少々脱線したが、ギザトゥンク%で雫ふふが一枚脱皮して表現力の幅も広がり、今後のぜん君の可能性を予感させる曲だと聴こえるし、いつしかどこかへ浮遊してしまった感すらある「病みかわいい」という原点に新しい価値観を吹き込んでくれる予感を。
最後はめぐみさんがCult Screamでも聴かせるような畳み掛けるメンヘラチックなポエトリーで締めくくられるのだけど、ライブでこの曲を歌うふふを観たかったな。もしかすると僕は後戻りできないことになっていたかもしれない。
改めて通して聴いてみるとこのギザトゥンク%がこのアルバムの中で最も「かわいい」成分を体現化した曲かもしれない。

虚虚実実IMF
初めてこの曲を聴いたのはDEADENDprisonerのリリイベだった。シンセベースのようなビヨヨーンとしたエフェクトの効いたベースが好きなのと、テンポも速くてシャウトもあって、かと思えば三三七拍子でリズムを刻んだりエンディングの相撲取りのようなキョンシーのような虚無な表情の振り付けがシュールでヘンテコかわいい曲で、良くも悪くも奇麗にまとまっているDEADEND〜よりも尖っていて好印象だったが、その後はなかなかお目にかかれずだった。
しかしベースをコピーしたのもあって曲自体は結構たくさん聴いてます。
サビでは「〜それだって」とファルセットに変化するフレーズが繰り返されるが特にメイちゃんの「天動か地動か其れだって」の「だって〜」が好きですね。

the other side of 
「〜of 何々」と言い切ってしまわないタイトルに、つれづれの「The end of…」を連想してみたり。
冒頭からメイユイメイのシャウトがインパクトを与える曲で、先の虚虚実実IMFまでの世界から一変する。このメイダイシンギというアルバムを手に取って初めてぜん君を聴く人がどんな反応をするか想像するとわくわくしたり。

今ではすっかり、ぜん君のシャウトディーバといえばメイユイメイと个喆というイメージが定着しつつあるが、かつてのそれは主に一十三四が担っていた。エフェクターに例えるならばメイユイメイがディストーションなら个喆はファズ──と言えば伝わるだろうか、そんな二人の個性の違うシャウト・スクリームが双璧を成してるイメージで捉えていたが、もとちか襲のシャウトも、例えるならばターボオーバードライブのようなまた違った色合いで刺さってくるのだ。

そこで繰り広げられるタイトな16ビートの音世界は、荒涼とした丘をゆっくりと歩き進む長く伸びた葬列の様。この光景はつれづれの「howling hollow」の物語の続きにあるのだと僕はイメージした。TOKYOてふてふのHyperphantasia収録の「zaniness」のレビューの際にも言及しようと思うが、これらの曲に流れる「"三途の川"感」。
昔の僕はスピード一辺倒だったのでこういったスローな曲はそれほど食指が動かなかっただろう。しかしこの曲は1'30"〜から疾走感ある8ビートに展開するんですね。作曲者のsyvaさんはつれづれでも最も多くの楽曲を提供してくださった方だが、こういういわゆるグルーヴの気持ちよさを引き出すのが絶妙だと思います。
それとsyvaさんの楽曲は、曲によってもちろん各楽器のセッティングやエフェクトもその曲の雰囲気に合わせて変えてくるのだが、スネアの音が実に気持ちいい。それが聴き続けていられる秘訣にもなってるのだと思う。

arcana ail
前曲のほんの僅かな余韻を残したまま、のっけから再びシャウトで突き進んで更に加速する。
PANTERAの「The Great Southern Trendkill」でも始まったのかと錯覚してしまう。かと思えばブレイク部分のタメ気味のドラミングはSepulturaの「Territory」を彷彿とさせたりする。

そして「Kiss me No say, Kiss me No say」と印象的なフレーズが飛び込んでくるが、ぜん君初期の曲「Hello Kiss me No say」から「never ending xxx」でも踏襲されてるフレーズをかつてないほど激しく叫び歌ってるのが痛快でもある。
これは言ってみれば言葉遊びでもあるのだが、PANTERAやSepultiraを彷彿とさせるこの曲でこのフレーズに耳を傾けてると、場面は収録現場に一転し「君のせい、君のせい、」「うひゃひゃひゃ…」「言ってるねぇ!」と談笑するタモリさんと安齋肇さんの姿が浮かんでくる、つまり空耳アワーの気分になるのである。

前曲からヘヴィネス・ハードコアの世界が続き、ギターの歪み方などが更に"ガチの洋楽"な感じに深くなってゆく。"外部の"ミュージシャンに委託した毛色の違いを実感する。
従来コドモメンタルは水谷さんやsyvaさんを中心として、いわゆるコドメンサウンドとも形容されるガラパゴス的進化を遂げてきてそれも唯一無二の味わいだったが、ここ数年で外部とクロスオーバーする機会も増えてきたし、対バン形式のライブも増えてきた(また対バンかよ…という気持ちも無いと言ったら嘘になる)。
しかしそれらの一期一会がこうしてサウンドにフィードバックされるのならば僕は面白いと思うし、たとえいろんなものが坩堝のように混ざり合ってきたとしても「コドモメンタルらしさ」を失わない核となる表現力があればいいと僕は思う。しかしその「コドメンらしさ」「ぜん君らしさ」とは何か──は常に模索し続けていてほしい。蓄積された経験がセオリー化されたとしてもそこに固執することもなくフレキシブルにもがき続けていてほしい。

aiHUMANIOD
アルバム中盤ではヘヴィなサウンドが続くが、これもまた毛色が異なってくる。3連シャッフルがスイングするいわゆる"ジャジー"なロックである。それこそ90年代のヴィジュアル系が激しさや狂気ばかりでなく妖艶さを演出したいときに用いられがちな曲調でもある。アルバムでいうところの4曲目あたりなんかで。
歌詞については今時の流行ワードを取り入れたタイトルかなというのが第一印象だった。

ギザトゥンク%といい、aiHUMANIODといい、こういったキーワードをタイトルや歌詞に用いることには時代性が伴ってくるので、後年になるとそれが陳腐にも響いてしまうおそれもある。たとえば「ポケベルが鳴らなくて」と聴くとあの90年代を知る人にとってはノスタルジーを喚び起こすことはあるかもしれないが今を生きる人への共感を呼ぶかと言われればそれはクエスチョンだ。
Bugglesの「Video Killed the Radio Star」も80年代当時としては"現代への皮肉と哀愁"としても響いただろうが今となってはVideoも過去の産物となり"近現代史の1ページ"となってしまっている。吉幾三の「レーザーディスクは何者だ!?」に至っては令和人にとっては全く逆の意味で気「何者だ!?」なのである。
後述する浪漫事変にも「スマホ操作する」と出てくるが、僕が浪漫事変を初めて聴いたときなんとなく苦手意識が出てしまったのはそういうところにもあったのだと思う。

だいぶ話は反れたがaiHUMANIODに話を戻すと、そのタイトルとは裏腹に歌詞の内容は実にフィジカルというか官能的ですらある。それはメンバー自らが配信などで語っていた通りで、Flashback Nightmareに収録の、同じくEiseiさん作曲の官能的トラック「Pistil」の系譜とも言える。
しかし単に好奇心と助平心を刺激する巷に腐る程溢れ返ってる俗物とは一線を画するものをGESSHI類氏は持っていると僕は思う。そんなこと言ったらGESSHI類氏は「いいえただの俗物ですよ」と飄々と笑っているかもしれないが。
その世界は官能的でありながらもしかし、「悲しみを貪」っていたり「大嫌い」と「大好き」が交錯していたり、その心情が一筋縄で手に負えるものではないことを伺わせる。
そして秘事の後は「ようこそEden禁断の物語を閉じる」と締め括られる。禁断の林檎を齧ったときから始まった人間模様の歴史を、人間が創り出したHUMANIODが再び閉じてしまうというのだろうか。

物事には始まりがあって終わりがあり、人間はそこで果てて「逝って」しまうのだ。
しかし終わった後も鼓動は打ち続け残り香と余韻という五感への刺激を残して次の世界へと紡ぎ繋いでいく、それが人類が生き残ってきたこの地球という星の歴史なんだと思う。
Hello, New WORLD.
しかし人間というものは叡智と表裏一体の愚かさも本能的に持っていて人間が開発した核物質の融合や、最近ではそれが人工知能によって操作され、時の主導者が持ちうる「核のボタン」でさえも人間の手を離れたところで人間を絶滅させるリスクにさえ冒されている。しかしそれは皮肉にも人間が叡智の限りを尽くして造ってきた世界なのだ。

本作の裏ジャケットに描かれる荒廃したディストピアは、それを愛して壊したあとの世界───のメタファーだと思った。
と書くとSF小説のように思えるが、aiHUMANIODという無機質なるものは、情愛に込めた無機質な感情のメタファーとも想像できる。
真相がどちらかは、想像するものの自由だと思う。

孤HOLIC
そして孤HOLICへと激しい曲が続く。
僕は音楽を聴くとき曲先行である場合が多い。それはCDを手に取ってパソコンに取り込みスマホにも取り込み通勤電車で聴いて後になって歌詞を調べるのが、僕の音楽サイクルになっている。

「握りつぶして黒い春、棘」という歌詞の「春、棘」が「HARTOGE(ハルトゲ=自動車BMWのチューナー)」に聴こえてしまうという「空耳アワー」的な聴き方もしがちなのだが…ってのはおいといて、この曲を作詞家のGESSHI類氏がTwitterで言及してたので改めて歌詞を読みながら聴くと、また印象は変わってきた。

「孤」とは少年がミルクさんの曲世界へのリスペクトとして「みなしご」と読むのがいいそうだ、とはGESSHI類氏の談。
──荒廃したディストピア。
やがて徒党を組んで略奪などが津々の浦々で起こる。いわゆる「ヒャッハー!汚物は消毒だ!」の世界、といえばその光景を思い浮かべる人も居るだろう(世代限定)
そんな世界に於いて「孤」となった人間たちは、一人一人がモーターバイクに跨ったカウボーイになってサバイバルしてゆかなくてはいけない。
しかし何のために、何処を目指して人は生きなければならないのだろうか。
そんなありとあらゆる形あるものが破壊され尽くしたこの世界において、未練のように浮遊する魂たち。
GESSHI類氏がこの曲を「遺言でいいです」とTwitterで言っていたことを思い浮かべる。そこに意味を探そうとするのは果たして罪だろうか。
しかし新譜を出すごとに新境地を魅せてくれるGESSHI類氏がこれを以て「遺言」としてしまうのはあまりにも勿体ないし、これからも作詞家としてまだまだ新しいモノを切り拓いていってほしいと僕は思うので、GESSHI類氏がしたためて差し出してきた「遺言」を僕は読まずにそれを破って紙吹雪としてステージ目がけて舞い散らせたい。
あれっ?どこかでやっていたぞ?
このような儀式を。

それほどGESSHI類氏にとって渾身の作品だったのだろう。たとえば一般論になるが、「ストックはまだまだありますよ」と小出しにされた"そこそこの"作品には、"そこそこの"魅力しか宿らないと僕は思う。
渾身に身を捧げ朽ちて破壊し尽くされるほど精魂尽き果てたもしても、そこに散らばった種からやがて芽が出て、いつかまた精魂は宿るのだと僕は思う。
そしてここで描かれる交錯する相反する心情は、ゆくえしれずつれづれの「Grotesque promise and I really hate me」に通づるものがあると僕は感じた。
「孤HOLIC」というタイトルとは裏腹にサビの終わりの「共に生きてゆきたい」というフレーズが曲中で最もキャッチーに歌われている違和感がそう思わせたのだ。
「生きてゆきたい」とは───
その相反する心情の奥底にある核なるものは、今までのGESSHI類氏の曲でそれは英詞として歌われたりシャウトパートとして歌詞カードを読まなきゃ分かりづらい形として歌われることが多かった。ところが「共に生きてゆきたい」というストレートに聴こえてくるメッセージを逆説的な意味なのだろうかと穿ってみてしまう変な癖がついてしまった。
しかし「〜HOLIC」とは「ALCOHOLIC(アルコール依存症)」にあるように「〜から脱却したい」という気持ちと表裏一体であるとも言えるだろう。
つれづれの「Grotesque〜」も、この「孤HOLIC」も、これを告白してしまったら御仕舞でしょうという気持ちにさせられるという意味で、共通した痛みのようなものが流れていると感じた。

 
イロヅクシグナル
孤HOLICのクラッシュシンバルの残響ののちに、ハーフミュートで8分に刻むオーバードライブギターに安心感というかノルタルジーのような感情を喚び起こされる。ここまで張り詰めていた曲が続いていたせいもあるだろう。
そしてそこへ飛び込んでくる「少年少女」と始まる出だしのフレーズが印象的だった。
ぜんぶ君のせいだ。はそのグループ名からして、主語が「君」と「僕」という主観同士のダイアローグが多く、「せんぶ僕のせいだ」という曲もあるが、この曲のように「少年少女」と距離をおいて俯瞰していること独特であり印象的に思った。

しかし物語が進むにつれ、それが「少年少女」に内在するものであると伝わってくる。それはこの後ダイアローグを紡ぐ「君」と「僕」自身への過去に対する客観的な三人称かもしれない。
そんな過去への憧憬を思い浮かべると「イロヅク」というキーワードは夕焼けでオレンジ色に「染まる」という割と多くの歌で描写されがちな連想をしてしまいがちだが、しかしこの曲で描かれてるのは夕焼けではなく「朝焼け」がオレンジ色から白へと「イロヅク」ところが独特な着眼点であり、どこか「詩的だがしかし予定調和なもの」に対するアンチテーゼのようなものを感じる。
真っ黒いキャンバスに白い絵の具を塗り重ねていく技法もあるし、描き方は自由だ。

少年がミルクといえば「トーキョー・ブルーガール」のMVでは夜の東京が描かれているが、しかしそこに流れる音楽から僕は朝の爽快さを感じた。と言っても清涼飲料水や食パンなどのCMで描かれる「これから始まる朝の爽快感」とは異なる、出勤通学のサラリーマンや学生と逆方向に歩く朝帰りの背徳感にも似た、小鳥がさえずる裏の路地ではカラスがゴミを突っついているような、目が眩みそうなくらい眩しい朝の空元気で半ば不健全な爽快感だ。


イロヅクシグナルに話を戻す。
たとえば帰る宛もない二人が河原に二人腰掛けて何も無い星空を眺めていたらやがて朝が来て遠くの鉄橋から電車の音が聴こえてきて街が動き始める。そんなスタンドバイミーのようなセピア色の情景に広がる彩度の変化もまた「イロヅク」と言っていいだろう。
そんな静寂の甘酸っぱい景色を思い浮かべつつ、歌詞を読み進めてゆくと全く別の景色も浮かんでくるのだ。
aiHUMANOIDで描かれる「あなたの名を呼んで」に通づる「君を呼ぶ。」というフレーズなどで「秘事」を描写した歌詞でもあるのかな、と。
奇しくもこれらのフレーズはいづれも雫ふふのパートだったことを思うと、今後誰がそこを歌い続けるかも興味深いところではあるし(その後の配信ライブでいくつかを観ました)、ふふだからこそ描けた儚い憧景だったのかと思うと、寂しさがよぎるのだ。

しかしその描写についてはあえて赤裸々に断定してしまうのは野暮ってものであり、聴く者の想像力に任せるのが流儀ってやつだと僕は思う。極論を言ってしまえば、このブログでの考察そのものもまた無粋なものなのかもしれないし自己矛盾に陥ってしまうのだが。
「命題」とは「真偽」であると。

「映画みたいに笑う人よ」というフレーズもまた不思議な余韻というか一瞬「映画みたいとは──?」と引っかかりを残すのだ。映画と言ってもハッピーエンドものもあればバッドエンドのものもホラーもアクションもある。
しかし歌詞全体そして曲全体に流れる「優しい空気」、そこから察するにそれはきっと泣ける映画なのだろう。
主人公が泣き笑うとき、そんな風景が泣けるとき、その感情は様々だが。
泣き合って笑い合える、だから人間って美しいのだと思う。
aiHUMANIODが愛憎織り交ぜた情念の殺仕合だとするのならば、イロヅクシグナルは喜びも悲しみも包み込んで命を未来に繋いでゆく心と心のつながりなのかもしれない。
熱さと暖かさは似て非なるものである。
ところが「溶け合うフレア」と、人間は一瞬にして気体と消えてしまうような天文学的な温度の宇宙における爆発現象にそれを喩えているが、そこに芽生える一つの小さな命の始まり──先の曲の段で述べた「ディストピアに芽吹いて咲いた一輪の花」のようでもある。

この歌詞カードのこのページの背景の世界が最もマッチした曲のように思え、今までのぜん君にかつてこれほどまでにスケールの壮大だった歌はあっただろうかと思いを巡らせるのだ。
表ジャケットに描かれる"6色の"点滴バッグ。それは人間の形を失った6人から遺された「概念」という姿なのかなと思いを馳せると、なんとなく理解できる気がする。

ところが歌詞カードの裏表紙を見ると、いわゆる裏ジャケ(CDプラケースの背面内側)とは違う箇所がある。

右下に二人の人間と思われる2つのシルエットが映り込んでいる。これはCDショップで手に取っただけでは見えない姿だ。目を凝らして見てみると向かって左側の者はジャケットに映っている点滴バッグとおぼしきものを懸下して携えている。
赤く見えるからめぐみさん?
しかし荒涼とした大地がが赤く覆われているし、あるいは如月愛海という液体を注入することによって生命を維持している何者かなのかもしれない。
そしてその色は見る者にとっての「君」と「僕」と解釈すればいいだろう。

浪漫事変
ぜん君の曲には「革鳴前夜」など、世界へのパラダイム・シフトを曲名や曲中のテーマに冠することが割と多いと思う。
一般的に音楽の世界、殊に社会不適合者たちの集う音楽の界隈においては「革新」が是とされる風潮がある。そこは「夢」を描きやすい所以にあるのだろう。
しかし僕は個人的に「革命」だの「レボリューション」だのと軽々しく使うことは好きではない。薔薇色の変化を夢想するよりも、先人たちが築き上げて守り抜いてきたものを守りつつ、「変化」よりも「進化」していきたいと思っている。すなわち「Revolution」よりも「Evolution」を是としたい。これは何年も前からの僕の持論であり、保守か革新かのideologyにも関わることになる。
温故知新、新奇懐古とあるように、僕は異端児たちの跳梁跋扈から「お前は異端児だ」と排他されるような、逆説的な異端児として先人たちへのリスペクトも忘れずに創造の世界へ進むことが「健全」だと思っている。

さて、「浪漫事変」の話に戻るが、僕はこの曲を一聴したときに感じた違和感のまま、それを再び聴くことは殆ど無かったし、MVのアニメーションもなんか苦手だったし(苦笑)、ライブでこの曲が披露されたという記録も殆んど伺っていない。

しかしこれも本アルバム「メイダイシンギ」の前にリリースされたシングルだったし、あえて収録から外す理由も無かったし、アルバムに収録されてる以上は曲順通りに通して聴くのが好きなので、徐々にこの「浪漫事変」も耳に馴染んできた。
しかしこの"スカ"をベースとしたサウンドって、アイドルの既存の曲から毛色を変えるにはこれもまた選択肢かもしれないが、たとえばモーニング娘。のシングルのキャリア中における「まじですかスカ!」の存在感のように正直「微妙な」立ち位置にもなりかねない諸刃の剣だと、主に個人的な好みで思います。

ひとえにスカと言ってもレゲエのリズムを倍速にしたところから発展し様々なスカがあるのだが、日本においては90年代中盤に東京スカパラダイスオーケストラや数多のスカコアとカテゴライズされるバンドたちによってそのスチャスチャ♪とギターが裏拍でカッティングを刻むサウンドが市民権を得て一般化されたように認識している。
彼らのサウンドもしくは彼らのいでたちは往々にして陽気である。ゆえに(うぴょぴょ~)、「病み」をモチーフにしたいわゆる「陰キャ」の音楽性とのギャップを生じかねない。
アップライトピアノで軽快に流れるフレーズが印象的で、途中にトイピアノの音も盛り込まれていて、まさに「おもちゃ箱をひっくり返したかのようなサウンド」には、これまでのぜん君が奏でてきた音楽に通奏低音されている屈折した劣等感と攻撃的な衝動というよりも、玄人的な響きを感じる。

1980年代末期にブレイクしたバンドブームの界隈においてもスカサウンドを特色とするバンドも多かった。たとえばレピッシュだったり、のちに島唄でブレイクするザ・ブームもそれまではスカバンドと呼ばれるうちの一つだった。
そんなこと思い出しながら、高い演奏力とコミカルさを兼ね備えたバンドであるユニコーンのような雰囲気が浪漫事変と重なって聴こえた瞬間、今までこの曲に対して抱えてた違和感のようなものが氷解したように思えた。たしかにユニコーンの代表曲である「大迷惑」に通づるところもある。
この浪漫事変は「スカコア」とジャンル的にカテゴライズするよりも、イギリスのバンドXTCなどに形容される「ひねくれポップ」と抽象的に捉えた方が適切かなと思った。
一体いつ誰が「ひねくれ+ポップ」と異なる価値観をMixtureさせたのかは分からないが、この「ひねくれ+ポップ」を「病み+かわいい」に翻訳したら、この浪漫事変の意図していたところが見えてきた気がする。

夢幻路
8bitゲームのようなイントロから高速な4つ打ちで駆け抜けてゆくハードコアテクノなナン…、「〜ナンバー」と書いてしまいそうなところだが、いかにも音楽雑誌のレビューみたいになるからあえてそれは避ける。あくまでも私観によるもので公共性は無いのだから。
ハードコアというか「スラッシュテクノ」という言葉を思い出した。音楽史の系譜ではあまり見かけないジャンル名だが、その言葉からイメージを湧かせることはできる。

この曲の歌詞を聴いた患いさんは少なからずニヤリとしただろう。
イントロからしてサンプリング文化以降の手法で作られているゆえに楽曲構成もジェットコースタームービーのように緩急織り交ぜ変幻自在で冗長さが無い。いわゆる"ガチな"テクノミュージックとなると冗長になりがちなのだが、アイドルの曲だからという言い訳でその本筋を逸脱することができるのだと思う。「音楽は自由」だと言うが果たして本当だろうか。本格派気取っている人たちに限ってその様式美の呪縛でがんじがらめになってはいないだろうか?
アイドルは邪道である。
ゆえに道なき道を自由に描き奏でることができるのだと僕は思う。
そんな高速BPMに乗せて紡ぎ出される歌詞は1 Verseめではぜん君に加入した当時あるいはつれづれに星歴に加入した当時、つまり歌手という扉を開いた当時のそれぞれのこころざし、2 Verseめになると加入してからの様々な葛藤が赤裸々に綴られる。

昔からのぜん君のフレーズが飛び込む勢いに任せて、个喆が「Meltyドロドロ」と歌うのも印象的だ。Meltyと聞くと「とろけるような」という甘いイメージが浮かぶ。それは明治の冬季限定チョコレートだったり、SHAZNAの代表曲だったり。しかしそんな「Melty」に「ドロドロ」と、意味は同じはずなのだが価値観の相反する言葉を組み合わせてるところが面白い、というかGESSHI類氏ずいぶんハイになって書いてたのかなーと想像してしまう。そんな「Meltyドロドロ」というまさに言葉の坩堝を高速BPMに乗せて畳み掛ける様は、電気GROOVEの「電気ビリビリ」を思い出したりもする。

しかもそのFlash PaPa Menthol のRemixではそれを「スラッシュテクノ」と呼んでるところまでシンクロしてしまうのだ。

「確固たる夢を着る」それは日本武道館に立つと宣言した2022.04.03東京ドームシティホールでの「絵空事現」のあの瞬間を思い出す。そこから3 Verseめはしっとりと始まる。「ぼく達は何にも持ってない〜」1 Verseめをもう一度振り返るのだが、1 Verseめで「メモ書きMemory見つめ」ていたのは武道館を宣言した夜の、過去への述懐だったのだ。そしてリーダーである愛海さんが「君に出会った 泣いた」と心情を吐露する。
ひとすじこぼれ落ちる涙の雫。
刹那の沈黙のあと、「任せろ 自由とRomance」とぜん君の末っ子である寝こもちが頼もしさを見せ、BPMは再び疾走を続ける。

曲中に突如として「ものの恋あはれ」のフレーズが歌詞の引用のみならずメロディーごと飛び込んでくる。かと思えば終盤には更に畳みかけるように「Heavenly Heaven」や「キミ君シンドロームX」のフレーズも飛び込んでくる。まだまだ他にもある気がしてくる。
「僕喰〜」(2022ver.)のMVのブリッジ部分で唯一のオリジナルメンバーである如月愛海が結成当時からの写真たちに囲まれる走馬灯のようなシーン(走馬灯と言っても"ちぬ"わけではない)を彷彿とさせる演出である。
「斜め右後ろ30m? おいで」と「キミ君シンドロームX」を引用したフレーズが始まるともはやそこには"さりげなさ"はなく、バックに流れるピアノのめくるめくような速弾き連弾に乗せてメドレー状態に突入するのだが、この「おいで」が実にエモい。
かつては「斜め右後ろ30m」は「定位置」であり、そこへ「ちょこん」と佇んでいただけの距離感が、ここへ来て「おいで」と変化しているのが実にニクい。「キミ君シンドロームX」は僕がぜん君を知ったときには既に存在していた曲で調べると2015年10月に初めて音源化された。これは「7年越しの"片思いFinally"」であり、1つの恋のカタチの成就と言っていいだろう。
いつか武道館でライブを──と夢を語っていたぜん君が今年の東京ドームシティホールでのライブ「絵空事現」で公言した武道館ライブの実現に向けてこれまでのぜん君の歴史を振り返る、という意味では今作「メイダイシンギ」の最も重要な「命題曲」と言ってもいい。「或夢命」「絵空事現」そして「夢幻路」と物語は続いていくのだと。
拙ブログ冒頭のジャケ写のくだりで言及したバンドbauhausの「Exquisite Corpse」の曲の始まりでは、 「Life is but a dream. Life is but a dream…」
(人生はただの夢、)
と繰り返して歌われている。

この曲のエンディングでランダムに演奏されるディレイのエレピアノでは、そんな人生を賭して武道館に挑むことのひたむきさと尊さと、全ては泡沫(うたかた)のようにシャボン玉が割れて消えてゆくような儚さを象徴するかの如く奏でられているようだ。

ロストモラトリアム
本アルバム「メイダイシンギ」のラストを飾る曲は壮大なバラードでもない。そこに流れているのは「祭りの後の侘しさ」。先日の配信ライブでこの曲が披露されたとき「意外だな」って思った。
そりゃあ「メイダイシンギ」のリリースイベントなのだしアルバム収録曲を披露するのは当然っちゃぁ当然かもしれないが。
しかしこのロストモラトリアムは、2023年3月15日の武道館「この指とまれ」が終わったあとになって初めて心に響くんじゃないかな。だから武道館でこの曲が披露されることもないのかな、などと思ったりもする。
そこに描かれる詞世界は、夢の晴れ舞台「ライブハウス武道館」に響かせるにはあまりにも残酷なくらいにミニマルでいて、そして儚い。
できることならば終演の翌日に仕事もせずに家で1人聴いていたい、そんな気分にさせられる。
「そばにいるよ」
という雫ふふの歌声が、より一層切なく響いてくる。
そんな喪失感が、武道館後の喪失感というのもこれに似ているのだろうかと思いを馳せたりするのだ。
しかしCDを聴いていると、いつも君がそばにいてくれるのだ。
カート・コバーンもシド・ヴィシャスもジミ・ヘンドリックスも尾崎豊もhideもゆくえしれずつれづれも、そこに音楽が鳴る時、君がそばにいてくれる。

僕たちはぜん君が来年の武道館を終えたあとに無期限の活動休止になることをあらかじめ知っている。
つい先日突如としてその知らせが公表されたが、それを予見して覚悟していた患いも少なくないだろう。僕もそれを覚悟していた。知っているからその後の心境に思いを巡らせることもできる。
しかしぜん君の武道館、はたまたコドメンのアーティストによる武道館公演とは、全く未知の世界である。
実際にその日が訪れるまでは僕たちはその景色を知らない。想像はできてもまだ見たことがないのである。まだ見たことがないからこそ、その日を待ちわびているし、その日に向かって僕たちは邁進しているのだ。

その後の虚脱感など今は考えたくない。
今も尚つれづれの虚脱感に負われている身としては、患いさんのそれを思うと心苦しかったりする。
しかし、ぜんぶ君のせいだ。が宣言したのは「解散」ではなく「無期限活動休止」なのだから、どうかその一縷の望みは捨てずに待ち続けてほしいと僕は思う。
信じることができないのならば最初から好きになるなと言いたい。
いつもライブのMCで言ってるでしょう?
「病みかわいいで世界征服」と。
それがぜんぶ君のせいだ。だろ。

さて楽曲に話を戻そう。
アコースティックなギターが奏でるミニマルな演奏はやはり独りで聴いていたい気分になる。

ところが曲も中盤に差し掛かると、少々調子外れの歪んだエレキギターがカッティングを刻み、いびつさを残したままバンドのアンサンブルが再び始まる。
傷つき燃え尽き朽ち果てた精魂が再び動き出すようなエナジーをそこに感じた。

この展開で僕が感じたのはSPEEDの1stアルバム「Starting Over」のラスト曲「Starting Over(reprise)〜Walk This Way」である。

スローバラードからテンポチェンジして再びファンキーにグルーヴし、アルバム1曲目の「Walk This Way」へと輪廻するのである。この流れは是非ともこのStarting Overをアルバムを一枚通して聴いてほしいし、アルバム全曲リピート機能で再び1曲目につなげて聴いてほしい。
ちなみに「Starting Over」とは「終わりは始まり」という意味である。

そんな僕の極私的な音楽ボキャブラリーで、この「メイダイシンギ」も同じような聴き方をしてみると、更にアルバムの世界が広がるように思えてきた。
ロストモラトリアムでは最後の歌詞をこもちが「何もいらないよ 白日」と堂々と歌い上げ、ギターのカッティングで締めくくられる。
そこから再び「ICE CREAM RABEL」のアルペジオのイントロへの繫ぎがまた心地良いし、そこにある何気ない或る白日の風景が目に浮かんでくる。
喪失感の白日のアルペジオに耳を委ねていると、I just fall in, you just fall in と歌が始まる直前のブレイク音が、白日の下でじりじりと溶けかかってコーンカップからアイスクリームが滑り落ちる瞬間の音に聴こえてくるのだ。

私は"堕"ちる、君は"堕"ちる──

アイスクリームは原材料を凍らせて作るものだが、アイスクリームの甘く時に酸っぱい味わいは、溶け始めた瞬間から広がってゆく。
物語は溶けたところから始まり、それは終わるまで続く。「夢幻路」の「Meltyドロドロ」とは交錯する感情のメタファーでもありアイスクリームであるとも解釈出来る。
冒頭のくだりで言及したCD盤面の丸い物体、それは僕たちの棲む惑星かもしれないし、生命の始まりかもしれないし、あるいはもしかしたらコーンカップに盛り付けられた一玉のアイスクリームなのかもしれない。
Googleアースで地球という惑星をズームアップするとそれはアイスクリームとなり更にズームアップすると顕微鏡に映る生命誕生の瞬間となり、更にズームアップする惑星となり無限に続いてゆく。

僕の「命題真偽」はまだ留まりそうにない。
これだから音楽はいつまでも聴いていられるし、辞められそうになんかない。
いつまでもそのThemeを鳴らし続けて心から戯れていたい。

2022.12.11.
Лавочкин(らぼーちきん)

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