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モーツァルト音楽のように ・ ヴァトー

日めくりルーヴル 2021年2月2日(火)
『ピエロ(旧称ジル)』(1718−1719年)
ジャン=アントワーヌ・ヴァトー(1684−1721年)

個人的に[ロココ絵画]は フワフワ浮かれた感じがして落ち着かないため、まだ遠巻きに見ています。原因は明らか、私の勉強不足です💦。
しかし今日の作品、[ロココ絵画]の創始者ヴァトーのピエロに惹かれます。

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袖の長さや裾の短さがチグハグな白いサテン生地の衣装を身にまとい 中央に立っているピエロと目が合いました。その物悲しい表情が気になって仕方ありません。
舞台下からピエロをからかうように衣装を引っ張る人たち、ロバに乗る人物。これは喜劇の一場面で 全員「役」を演じているのでしょうか?それとも稽古の合間のプライヴェート・ショットでしょうか?
夢かうつつか…作品から受けるアンバランスな感じや不安定感。この不思議な魅力はどこから来ているのでしょうか。ヴァトーについて知りたくなりました。

まず見つけたのが『新潮美術文庫 ヴァトー』池上忠治先生の文章。

ロココ絵画とは旧体制下(アンシャン・レジーム)のブルボン王朝や貴族階級が咲かせた最後の花__モーツァルトの音楽のように限りなく美しく、極度の洗練のために生命力の希薄さやその故の貴重さをさえ感じさせる花__に他ならなかった。そして典麗、優雅、気品、ほのかなメランコリーとアンニュイといった点で、数あるロココ画家のうちでもヴァトーの右に出るものはないのである。

素敵な表現です✨。このまま丸暗記することにします!(笑)。

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ジャン=アントワーヌ・ヴァトー(1684−1721年)
18世紀フランスを代表する画家ヴァトーは、結核を患って36歳の若さでこの世を去りました。

◉フランドルの血と文化
生まれたのは、古来フランドルと呼ばれる地方。ヴァトーが生まれる直前にフランス国に合併されたのですが、文化・芸術の面ではフランドルの強い伝統が根付いました。18歳でパリに出たヴァトーにはフランドルの写実的な風俗画の傾向があったといいます。
ヴァトーが生涯 同じ場所に長く住むことができなかったのは、“フランドル人特有の放浪癖が混ざり合っているから”、とする記述もありました(笑)。

◉舞台芸術
パリに出たヴァトーは、芝居画や舞台装置で名が知れたクロード・ジロの家に住むようになります。時は演劇の黄金時代。王侯貴族から庶民まで演劇熱が高まっていた中、ヴァトーはジロのもとでイタリア軽喜劇の舞台絵や、役者たちの優雅な立ち振る舞いを学んだのですね。

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①『イタリア喜劇の役者たち』(1720年頃)ワシントン・ナショナルギャラリー
②『イタリア喜劇の恋』(1718年頃)ベルリン・絵画館
③『満足するピエロ』(1712年頃)ティッセン=ボルネミッサ美術館
④『メズタン』(1719年頃)メトロポリタン美術館

師匠ジロは、あくまでも舞台の一場面を描く画家でしたが、ヴァトー作品では、役者たちが舞台を離れて 森や庭園で語らい歌っています。そのため芝居と日常の境界は曖昧になり、見ている我々は役者たちと距離を感じながらぼんやり眺めるだけ。自分がどんな立ち位置で、彼らをどんな風に見れば良いのかわからない…そんな不思議な空間に導かれるのです。
今日の作品『ピエロ』から受ける不思議な魅力も同じですね。

◉巨匠たちとの出会い
その後ヴァトーは、リュクサンブール宮の管理者を務めていた室内装飾のクロード・オードランの下で働きます。リュクサンブール宮でルーベンス『マリー・ド・メディチスの生涯』をつぶさに研究し模写する貴重な機会を得たヴァトーは圧倒的な影響を受けたようです。本場のイタリアでもっと巨匠の技を学びたい!とアカデミーのローマ賞を狙ったのもルーベンス作品を見てからだといわれています。

のちにヴァトーは、著名な美術コレクターであるクロザの邸宅で、16世紀ヴェネツィア派、フランドル派の膨大な絵画や素描を存分に研究する機会にも恵まれます。巨匠たちとの出会いにより、ヴァトー作品に描かれる人物の動きは よりしなやかになり、色彩も鮮やかになっていったのですね。

◉フェート・ギャラント【雅宴画】
代表作⑤『シテール島の巡礼』。
この作品でアカデミーに【風景画】でも【歴史画】でもない 新しいジャンル【雅宴(フェート・ギャラント)】の画家として登録されたヴァトー。優雅で洗練された[ロココ絵画]の創始者と呼ばれる所以です。

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⑤『シテール島の巡礼』(1717年)ルーヴル美術館
⑥『愛の講習』(1716年頃)スウェーデン国立美術館
⑦『愛の音階』(1715年−1718年)ロンドン・ナショナル・ギャラリー
⑧『愛の宴』(1717年頃)ドレスデン美術館

田園や森の中で男女が集い、音楽を奏でて愛を語らいます。上品でしなやかな仕草は人物だけではありません。森の木々でさえベールに包まれているようにユラユラ軽やかなのです。
【雅宴画】が生まれた背景には、当時フランスの政治情勢が大きく関係していました。
◉フランスの18世紀
絶対的権力を握っていた太陽王ルイ14世の時代が幕を閉じ、新しい時代が始まります。摂政オルレアン公フィリップは、バロック風ヴェルサイユ宮殿を離れ、ルーヴル宮に隣接したパレ・ロワイヤルに移り住みました。人々は堅苦しい様式から解き放たれ、自由で華やかな時代を気ままに満喫できるようになったのです。
ヴァトーは自らが見聞した 貴族やブルジョワの生活様式や宮殿、邸宅の庭園風景で繰り広げられる体験を作品に投影することができたのですね。

◉デッサンの画家
ヴァトー は膨大な数の素描を残しています。

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黒、赤褐色に加えた白いチョークのハイライトが効いていますね。美しい✨。
一見同じに思えてもわずかに異なるポーズを、幾度も幾度も繰り返しデッサンして研究を続けたヴァトー 。常にデッサン帖に人物の姿態を描きとめ、実際に絵画を制作するときには、それらのデッサンを組み合わせて画面を構成したそうです。
しなやかで上品な立ち振る舞いや『ピエロ』の物悲しい表情まで、全て研究の成果なのですね👏。

◉性格と病気
ヴァトーは移り気で短期、落ち着きのない性格であり、作品を完成させる頃にはすでに飽きていることもあったそうです。素早く描き上げようとして筆に油をつけすぎたり、気に入らない部分に油を塗って絵具を溶かしたり…。そのため保存状態が悪い作品も少なくない、との記述もありました。

また憂鬱症で気難し屋のヴァトー は、アカデミーの正会員になってからも、公的な場での活躍やアカデミーでの講演などは望んでいなかったそうです。ローマ賞は狙ったものの、アカデミー会員になることは望んでいなかったのかも知れません(私見)。

体が弱く、人生後半は結核に苦しみ 死をも覚悟していたというヴァトー。
彼が描く【雅宴画】の情景に哀愁が漂うのは、現世の幸福がいかに移ろいやすく人生がいかに儚いものであるかを、彼自身が常に感じていたためかもしれません。
『ピエロ』から受ける アンバランスや不安定感には、こんな理由があったのですね。

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ふむふむ。
今回少しだけヴァトー作品に、そしてヴァトーに近づけたような気がします。

冒頭に引用した池上先生の
モーツァルトの音楽のように限りなく美しく、極度の洗練のために生命力の希薄さやその故の貴重さをさえ感じさせる花
という文章が頭から離れません。

投稿が長くなってしまったので、今からヴァトー作品を鑑賞するときに頭のBGMに流すモーツァルトの音楽を探してみることにします!

<終わり>

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