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三つの<ブルターニュ> Partie 2

同じ日に鑑賞した二つのブルターニュ展、
[A]SOMPO美術館<ブルターニュの光と風>(以下、<SOMPOブルターニュ展>と表記)と
[B]国立西術館<憧憬の地 ブルターニュ>(以下、<西美ブルターニュ展>と表記)
について前回投稿しました。
異なった文脈から同じテーマを鑑賞することで、考えさせられることも多かったのです。

午前中に訪れた<SOMPOブルターニュ展>の会場で、解説パネルに見つけたフレーズ、
「“ステレオタイプのブルターニュ人” を画家たちは描いた」。
これがなぜか心に引っかかったまま、二つの美術展を鑑賞していました。
帰宅して<西美ブルターニュ展>の図録にある論文・元カンペール美術館館長の論文を読んで「そういうことか!」と深く感じ入ったのであります。

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その前に。
まずは “ブルターニュ地方” の特異性について知ることが、今回の美術展を楽しむために外せないポイント。少しお勉強チックになるのですが、<西美ブルターニュ展>の図録の記述を参考にしながら、なるべく簡潔に書きます。

◉ ブルターニュの地理
・ヨーロッパ南北を結ぶ航海における戦略的に重要な場所、ブリテン諸島の近く(下の地図をご参照あれ)
→ イギリス海峡を挟んですぐ上にはイングランド! パリより近いかも。。。
・大西洋に突き出た半島には、荒れる海、そびえる断崖、そして未開の荒れ地と内陸には深い森が広がっている
→ 創作意欲と冒険心がそそられますね。。。

国立西洋美術館<憧憬の地 ブルターニュ>図録より

◉ ブルターニュの歴史
・石器時代に巨大な墓石(墳墓)、列石(メンヒル)が建造される
・鉄器時代からの移住の動きがあり、ケルト文明が広がる
・その後 英国から逃れてきた修道士たちがキリスト教を布教し、ケルト的な側面を残しつつ祭式が変化した
→ なにやら謎に包まれていますね。

◉ ブルターニュの位置付け
・この特異な地理・複雑な歴史と伝説が物語と結びつくことにより、1760年代からフランスの歴史家や作家の間で「ケルト熱」が巻き起こる
・芸術面でも、ギリシア・ローマ文化など過去への見方が一新される流れの中にあって、ブルターニュはフランスのどの地方と比べても重要な位置を占めていった
→ 前回ご紹介した、ブーグローが「夏の間をブルターニュで過ごしてこの地をよく学ぶよう」と生徒に助言したのには、こんな背景があったのですね。

そして、
◉ 交通網の発達
・パリから600km以上離れた半島の先端に行くためには、郵便馬車で72時間を要した当時。カルナック列石を訪れたヴィクトール・ユゴーは、
「おぞましい二輪馬車で、これまたおぞましい道を通ってカルナックまで行き(中略)8リュー(32km)も歩いたから靴底が裂けてしまったよ」「君の想像を絶するほどケルトの建造物は奇妙で不気味だ」と奥さまに手紙を送ったそうです。
→ 旅の途中で言語がフランス語からブルトン語に移り変わり、非日常というより異国情緒を感じることになるのですね。

・1839年に汽船の航路が開通、1847年パリとル・アーヴル間に鉄道の路線が開通したことで旅行が盛んになる
→ 1855年には早くもウジェーヌ・ブーダンがブルターニュを訪れています。
・その後もパリからブルターニュの各方面への路線が広がることで移動が容易になり、ブルターニュを訪れる画家がさらに増えた

◉ もう一つの話
その裏では、1820年代からパリ南方のフォンテーヌブローに通った画家たちが、興味を失ってそこから離れる大きな動きが同時に起きていた
→ フランソワ=ミレー をはじめとするバルビゾン派の画家のことかしら。

・そこで画家たちは、コレクターが関心を持つような新しい絵になるピクチャレスクテーマを見つけ出す必要があった 
→ そしてブルターニュにやって来たのですね。

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なるほど、なるほど。面白いです。
そして手にしたのが、<西美ブルターニュ展>の図録に掲載されている元カンペール美術館館長アンドレ・カリウー氏の論文。

こうして、19世紀前半を通じて型にハマった考えが蓄積されて、ブルターニュ地方のイメージが形成されることとなった

アンドレ・カリウー氏『画家たちの大地、ブルターニュ』より

その形成されたイメージとは、

ブルターニュの人々はケルト人の直接の継承者である
ブルターニュに人々は異教に近い信仰を実践することがある
ブルターニュの人々は王に忠実で、フランス革命に由来する権力に抵抗する
ブルターニュの人々は野蛮である
ブルターニュの人々は漂流物の略奪や海藻の採集といった珍しく奇妙ですらある営みをする
そうした貧しい状況が示すように、彼らは文明の進歩から隔絶されているのである

アンドレ・カリウー氏『画家たちの大地、ブルターニュ』より

そういうことか。。。展示室で鑑賞してきた作品を思い浮かべながら合点しました。
これが<SOMPOブルターニュ展>の解説にあったフレーズ
「“ステレオタイプのブルターニュ人” を画家たちは描いた」
ということなのですね。

いずれも<SOMPOブルターニュ展>
左上)ピエール・ド・ブレ『コンカルノーの港』1927年
左下)リュシアン・シモン『じゃがいもの収穫』1907年
右上)ジョルジュ・ラコンブ『森の中の3人のビグダン地方の女性』1894年
右下)エドゥアール=エドモン・ドワニョー『ポン=ラベの子どもたち』1905年

女性たちはみな白い頭巾のような「コアフ」を被り、男性が着用するのは膝下丈のズボン、これぞブルターニュの人々、これぞブルターニュの生活、文化。。。絵画作品の鑑賞者やコレクターたちも、“ステレオタイプのブルターニュ人” を求めたのでしょう。
中にはこんな作品もありました(<SOMPOブルターニュ展>)。

エヴァリスト=ヴィタル・リュミネ『狩猟の帰途、またはブルターニュの密猟者』1861年

クールベ⁈ と思ったら別の画家の作品でした。
描かれた密猟者は、人目を忍んで夜中に少人数で活動する「ふくろう党員」がイメージされているといいます。
1792年からフランス革命に対抗する動きの最前線にあったブルターニュの人々は、反革命の暴動を起こした王政支持者の集団「ふくろう党」との世評が与えられていたそうです。
ブルターニュの歴史を表現するにあたり、こんな“ステレオタイプのブルターニュ人” を描いたのですね。

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ここからは少し脱線。勝手な連想ゲームです。

都会に住むブルジョア層がイメージする “ステレオタイプのブルターニュ人” 
が描かれた作品。
ステレオタイプの◯◯人 というと。。。
「日本人」…女性は髪を結って着物、男性は刀を手にした丁髷ちょんまげ姿 もしくは太った力士。もう少しマシなパターンは、背広に黒メガネ、いつもペコペコ謝っているサラリーマンでしょうか。
「中国人」…人民服を着てドジョウのようなひげと細く釣り上がった目。
東洋人がこんなイメージのまま登場する海外の映画を幼い頃よく見てました。
ちょっと “馬鹿にされている” と悲しくなったものです。

そういえば、以前 同じように感じたことがあります。
原始的な文化や人々を求めてパリからブルターニュ(ポン=タヴァン)やタヒチに渡ったゴーガンに対して
確かに、タヒチのことを何も知らない私が、現地の魅力を知る最初の機会となったのはゴーガンの作品かも知れません。
しかし。都会で成功することができなかったゴーガン、お金がなかったゴーガンが、誰も知らない土地、安い生活費、そして自分の表現方法に適した=売れる題材を求めてブルターニュやタヒチに渡ったのではないかしら。
ゴーガンは上から目線で現地の人たちを見下すような一面があったのではないかしら? そうだとしたら現地の人たちになんて失礼なの! と軽い怒りさえ覚えたこともありました。
ゴーガンという人をまだ好きになれていない私の勝手な連想と感情をお許しください。

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そこで、ゴーガンがブルターニュへ、そしてタヒチへと向かった本当の理由を少し探ってみることにしました。
(注意:国立西洋美術館は「ゴーガン」と表記しますが、他は「ゴーギャン」の表記が多いようです。ここでは、美術館や作者の表記通りに投稿します)

1886年7月、ゴーガンが最初にブルターニュに向かったのは、画材やモデル代も含めて生活費が安いことが大きな理由となっているそうです。
← そうだと思ってました。
ただそれだけでなく、近代社会とは縁のない素朴な社会と出会うことを期待していたといいます。
← 本当ですか?自分を正当化する「こじつけ」ではないの?

しかし、いくつか資料を読んでいると核心をつく一文を見つけました。

ゴーギャンは自身の出自に誇りをもっていた。彼の母方の曽祖父はペルー人で、ゴーギャンは自身を原始的プリミティヴな社会の子孫、「野生の人ソヴァージュ」とみなしていた

シラール・ファン・ヒューフテン『ファン・ゴッホとゴーギャンー現実と想像』より

ほーーーっ。
きっかけは何にしろ、自身の中に眠っていた本性が目覚めた、身体中に流れる血が騒いだということでしょうか。そしてブルターニュで「これだ!」と自分の居場所を見つけた…というのでしょうか。

アイデンティティを確立したゴーガンは、古くからの伝統を守るブルターニュの農民や漁師の暮らしに飛び込み、素朴な美と簡潔さを描いていったのですね。
また、ブルターニュにある少し神秘的なカトリックの教義が着想源となり、ゴーガンの宗教と象徴がどんどん重要性を増していくのですね。

左)ポール・ゴーガン『海辺に立つブルターニュの少女たち』1889年
右上)ポール・ゴーガン画家スレヴィンスキーの肖像』1891年
右下)ポール・ゴーガン『ブルターニュの農夫たち』1894年

なるほど、彼の作風にも通ずる真髄がここにあるのかも知れません。

ちょっとだけ、ちょっとだけゴーガンの見方が変わったかも・・・と、そんなこんなを考えながら、図録でゴーガン作品を楽しんでいます。

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最後に。
自分の拙い「脳ミソと心」を使って連想ゲームをしていると、何だか視界が開けてきたようです。「ブルターニュ」。
サロンへの出展を目指す画家たちは、写実的な描写でブルターニュを美化し、
作品の題材を求めてブルターニュへ旅行した画家たちの多くは、“ステレオタイプ” のブルターニュを描いたのかも知れません。
しかし、ブルターニュの風土、気候や人々の暮らしに魅せられて、長期滞在もしくは移り住んだ画家たちは、愛おしく思う風景やブルターニュの人々のありのままの姿を、そして人生の豊かさと喜びを描いていたんだ!と展示作品を思い浮かべてニヤニヤするのです。

あっ!
これ、<西美ブルターニュ展>のストーリーに近いかも知れません。

<憧憬の地 ブルターニュ展>
第1章 見出されたブルターニュ:異郷への旅
  1−1 ブルターニュ・イメージの生成と流布
  1−2 旅行者のまなざし
第2章 風土にはぐくまれる感性:ゴーガン、ポン=タヴェン派と土地の精神
第3章 土地に根を下ろす:ブルターニュを見つめ続けた画家たち
第4章 日本発、パリ経由、ブルターニュ行:日本出身画家たちのまなざし

前回の投稿で、<西美ブルターニュ展>のことを「文脈が捉えにくかった…」とか「不親切…」とか書いてしまいました。
図録を読み込んで考察を深めると「なるほど、なるほど」、「そうそう、そういうことだよね」と、とてもしっくりくるのです。
今更ながら、良くできた構成と文脈に感動✨。
図録のエッセンスは会場の解説パネルにもしっかり書かれていたようです(汗)。私の読解力に問題があっただけで、会場でスッと腑に落ちて感動している人も多いかも知れません。
わかりにくい!と感想を述べてしまったことが恥ずかしい限りです。
大変申し訳ありませんでした。

そして、もう一度<西美ブルターニュ展>を鑑賞したくなりました。

<終わり>

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