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画壇の明星(14−2) デ・キリコの教え

本屋さんで見つけた1951-1954年の月刊誌『国際文化画報』。
特集記事【画壇の明星】で毎月一人ずつピックアップされる世界の巨匠たちは、70年前の日本でどのように紹介されていたのでしょうか。

前回に引き続いて1953年4月号です。
いよいよ本題の【画壇の明星】。
今回は、ジョルジオ・デ・キリコです。

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画家デ・キリコの名前はかろうじて知っていました。ちょっとシュール、異次元の世界に迷い込んだような…そんな不思議な作品を描いた画家。。。ですかね。

【画壇の明星】の記事と解説はコチラ。

キリコは見ることのできない世界を召喚する画家だと言われています。馴れない人々の眼には異様な、とげとげしい感じがしますが、このような絵もよく見えれば、だんだんその性質が理解されてきます

国際文化画報1953年4月号【画壇の明星】より

“見ることのできない世界を召喚する画家” の作品を “よく見れば” …?。
うーーん。私はどんなによく見てもその性質は理解しがたいのです。

彼の仕事の特色は、ここに掲げるシュール風の作画にあります。不思議な幻想で、しかし鋭さのゆえに、甘くない彼の芸術は、シャガール、クレーなどとはちがった持ち味をもっています。

国際文化画報1953年4月号【画壇の明星】より

“シュール風”、“鋭さのゆえに甘くない”、“シャガールやクレーとの違う持ち味”。
そうなのだと思うのですが、私には70年前の解説は、わかったようでちっともわからないのです。

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では。
と、我が家の本棚にある美術本でデ・キリコについての記述を探してみました。

ジョルジオ・デ・キリコ Giorgio de Chirico(1888-1978年)イタリア🇮🇹。

デ・キリコは、人々が見慣れた風景を、新鮮な(そして不安を感じさせる)風景に変える画家としてよく知られている。彼は、強い光を受けた、叫びたくなるほど空虚な通りに、人物ではなく、仕立て屋の人形、顔のない立像、人物の影を描く

『art   世界の美術』より

“人々が見慣れた風景を・・・不安を感じさせる風景に変える画家”。
どういうことでしょうか。彼の代表作を鑑賞してみました。

左)『通りの神秘と憂愁』1914年
右)『愛の歌』1914年

光と影のはっきりした空間に長く続く廃墟のような建物、影のように描かれた車輪を回す女性には影があります。影に影…。さらに建物の向こうから伸びる巨大な人影。。。確かに、“叫びたくなる” 不思議な衝動に駆られます。
右の作品には、壁に掛けられた巨大なギリシャ彫刻とゴム手袋⁈。
なぜ?これは何?どういうこと?この世に人間は存在しているの?
サイズ感、距離感、陰影、空間の広がり…全てが歪んでいるようです。
“不安を感じ” る要因はこんなところにあるのかも知れません。

デ・キリコは、

◉「アテネとフィレンツェで絵を学んだ後、1906年にミュンヘン美術学校に通い、そこで哲学者ニーチェやスイス象徴主義の画家ベックリーンから大きな影響を受ける」
◉「キリコの絵は当時の小説家や画家に力強い影響を与え、彼らはその後、デ・キリコ同様にシュルレアリスム運動で大きな役割を果たすことになる」
◉「デ・キリコは、
 ①第一次世界大戦以前に
 ②【形而上絵画】の旗手として活躍した」

とあります。ほーっ。

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②【形而上けいじじょう絵画】の旗手。。。
あら、美術史でこんな分類もあるのですね。初めて知りました。
アリストテレスに由来する「形而上学けいじじょうがく」を辞書で引いてみると、
「あらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問=第一哲学」
…と難しそうなので深入りしません。

【形而上“絵画”】については、高階秀爾先生に解説をお願いしましょう。

「形而上学的」という言葉は、何も特別な哲学体系を意味するものではなく、科学的、合理的な知識に「先立つ」人間の直感がとらえたものという意味に用いられている。すなわち、合理的思考だけでは割りきれない人間の神秘に対するひそかな洞察がそこには見られるのであって、それはやがて、後のシュルレアリスムに大きく崇福されて受け継がれていくものである。

高階秀爾先生監修『西洋美術史』

“科学的、合理的な知識に「先立つ」人間の直感がとらえたもの”、
“合理的思考だけでは割りきれない人間の神秘に対するひそかな洞察”が見られる
ふーーむ。
他の資料も併せて読み込んでいくと、なんとなく、なんとなく感覚的に理解できるような気がしてきました(^^)。

描かれたモチーフは、現実的・経験的に考えると関連しないと思われるが、デ・キリコ自身にとっては意味深い「物」や「要素」たち。

左)『通りの神秘と憂愁』1914年
右)『愛の歌』1914年

それらを、日常的・合理的には理解できない組み合わせ(彫刻にゴム手袋?)や思いがけない文脈(不自然なサイズ感、遠近法や陰影)としてカンヴァス上に構成することで、思いがけない世界を繰り広げてみせるのがデ・キリコ
つまり 常識にとらわれた私たちが見ている現実の向こう側にある見えない世界を感じ取り、表現した画家ということなのですね。

「すべての知識の拡大は、無意識を意識化することから生じる
というニーチェの言葉を絵画で実現したということかしら。。。
道理や論理に支配されることない世界から何かが広がるというわけですね。
そうすることで、
「かぎりなく神秘と不安に満ちた孤独な詩情」(ニーチェの言葉
を描き出している…。
ふむふむ。

そう思いながらデ・キリコの作品を眺めていると、これが【形而上絵画】ということなのね!、と納得できるような気がします。

デ・キリコは日常的な景色を不安な歪みに変える天才である。

『art   世界の美術』より

日常的な景色を不安な歪みに変える天才” という表現、しっくりきました!。

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しかしデ・キリコがそんな才能を見せたのは、①第一次世界大戦前まで⁈
どの資料を見ても、デ・キリコ経歴の締め部分に必ず出てくる記述がこちら。

1910-20年の間キリコは、彼のシュルレアリスム的情熱を、不気味だが魅惑的な迷宮都市を描くことに注いできたが、その後は古典的な絵画を描くようになり、仲間のシュルレアリストから、彼の晩年の作品は凡庸で、大衆受けするものに堕していると批判された

『art   世界の美術』より

こんな記述も見つけました。
◉1919年以後は古典技術に興味を移し、新古典主義や新バロック形式の作品を制作(【新古典主義】時代)。シュルレアリスムグループから反発を受ける
◉ 後半生の彼は様々なジャンルに取り組み、スタイルも予想不可能なほど変化した
◉しばしば形而上絵画時代の自己模倣作品も制作(【新形而上絵画】時代)し、作品の年号も昔のものに変更して展示してトラブルも起こした

私が10分前に「理解した!」と思っていたデ・キリコは、わずか10年間ほどの、彼のほんの一面でしかないのですね💦。

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では。
と、1920年以降のデ・キリコの作品を見てみました。
【新古典主義】時代の作品がこちら。

右)『ヘクトルとアンドロマケ』(1924年)
中)『ユピテルの頭のある勝利記念碑』(1929年)
左)『美しいイタリア人』(1950年)

題材は同じでも、描き方が全く異なっていることがわかります。
色遣い、筆遣いに温かみと人間らしさを感じ、これはこれで魅力的ではあります。ただ「これがデ・キリコだ!」「デ・キリコってやはり唯一無二の画家だ!」とは言えないのかも知れません。

20世紀後半の【新形而上絵画】時代に分類される作品はどうでしょうか?。

左)『形而上的トリノ』(1951年)
右)『イタリア広場』(1948/1972年)

確かに、現実社会の日常とは異なるモチーフの配置であり、描き方も以前と似ているように思えます。
しかし、どこか既視感があり、温かみ、懐かしさすら感じてしまいます。そこに “叫びたくなる” ほどの不安感や衝動はないのです。デ・キリコらしさは失われているような…。

やはり、デ・キリコの代表作といえば1910-20年、わずか10年間に描かれた【形而上絵画】の作品となるのですね。

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ただ、ただ。
解説通り簡単に納得するのは悔しいので、ちょっとだけ深掘りしてみます。

20世紀に入った1900年のイタリアは、機械文明を讃美する【未来派】の騒々しいまでの「楽観主義」が革新的な運動を繰り広げていたと言います。
そんな中でデ・キリコが鋭敏に感じ取った「不安」は、第一次世界大戦という未曾有の災厄によって現実のものとなっていったのです。

少なくともキリコの場合は、第一次大戦が始まる前から、後にブルトンが「癒しがたい人間の不安」と名づけたものを感じ取っていた。おそらく世界大戦は、彼にとって、その鋭い感受性が敏感にとらえていたものを確認してくれたに過ぎなかったろう。そして、その第一次対戦を挟んだ前後十年足らずほどの時期が、キリコの「形而上学的絵画」の最も優れた作例をもたらした豊饒の季節となったのである。

高階秀爾先生監修『西洋美術史』

デ・キリコが1910-20年に描いた【形而上絵画】が、
彼が鋭敏に感じ取っていた世界大戦への不安、またその世界大戦でボロボロに引き裂かれた、世界の深い不条理をも呼び起こすものであるとするならば、
「人間らしい」人間が存在しない、恐ろしい「癒しがたい不安」を抱えた そんな世界に生きるのは辛すぎるのです。
それがたとえ芸術家として豊饒の季節だったとしても。。。

デ・キリコは、「人間味ある」現実的生き方を選択して【古典主義】に回帰していったのではないかしら?
彼が求めたのは、シュルレアリストの画家たちから批判された「凡庸で大衆受けする」作品を描くことではなく、キリコ自身が見たかった景色を表現することなのではないかしら?
誰も(そして本人ですら)意識していなかったとしても、デ・キリコは、深い不条理を感じることのない世界平和を 誰よりも強く願った人なのではないかしら?
(↑この段落は私の勝手な憶測です)

そうであるとしたら、彼の人生 後半の作品もじっくり見たくなったのであります。

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さてさて。
1953年4月号の『国際文化画報』の記事に話を戻すと、戦後の傷跡を抱える日本の状況を伝えています。
【記事】[遺骨を求めて日本丸出港す]

そして世界は反省することなく危険な道へと確実に進んでいくのです。
【記事】[英国の婦人労働者軍需工場へ]
【記事】[イタリアの軍備を見る]

1953年。
第二次世界大戦は終結したものの 朝鮮戦争が起こり、さらに東西の緊張、ベトナム戦争。。。争いは続いていくのです。

そして本誌の最後に紹介される写真は、1952年に発表されたインター・ナショナル・ピクチャー・コンテストの入賞作品「原子爆発の実験」。

数里離れた遠距離の原子爆発実験を望遠レンズと赤外線フィルムを持って見事に捕らえている貴重な資料写真でもある。

『国際文化画報』1953年4月号より

整然と並べられた椅子に座り、望遠鏡で原子爆弾実験を覗き見る冷静な大人たち。
1910年代にデ・キリコが直感した“無意識の不安” よりも恐ろしい現実の光景が、1952年のアメリカに広がっていました。

そして2023年の現代。
グローバル社会に生きる我々にとって、ロシアのウクライナ侵攻やアフリカ北東部スーダンでの軍事衝突は他人事ではありません。
世界平和を強く願う人々の切なる思いは強くなれど、危険は間近に迫っています。いつ、どこで、何が起こってもおかしくないのです。

我々が見慣れた風景自体が大きな歪みに耐えられなくなっている現代では、“見慣れた風景を不安な歪みに変える天才”、デ・キリコは必要はありません。

しかし、100年以上前に描かれたデ・キリコの作品は、
「迫りつつある危険・現実を直視し、逃げることなく“痛み” を猛烈に感じ、自らが行動を起こさなくてはならない!」
と私に教えてくれるのでした。

<終わり>

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