美醜(女性作家とポートレートその2)

女性作家とポートレートについて書いたが、それ以前に世の中に広がる美醜の基準について、が一番私には気になる。
あえて匿名を前提に書くことなので私を知っているという人もそこを鑑みて知らんふりしてほしいのだが、私には数十年来のヤマヒがあって、それはヒトの美醜と直結している。美しい=痩せている、という基準に従ったこの世の縛りだ。

例えば前回書いたように女性作家のポートレートと並んで男性作家だってポートレートを紹介されることは多い、かもしれない。そこで問題になるのは男性作家の場合その美醜が問題になるかどうか。男性の場合、よほどその人が美形であった場合くらいだろう。女性の場合は、その基準がぐっと緩くなる。美しかろうが美しくなかろうが、どんな顔をしているのかが大問題になるのだ。例えばあるインド系の女性作家が非常に美しい容姿をしているということは、だれからも異存はないだろう。実際彼女の美しさを見せつけるようなポートレートは、きちんとその役割を果たしている。見た瞬間、「美人だ」と感じるような写し方なのだ。では、前述のポール・オースターについてはどうか。知らない人はググってみてほしい。彼を美しいという人と、そうでもないという人は半々くらいだろう。たぶん多くの人は彼の「作家然」とした顔つきや風情のほうに目が行くのではないか。例えば顔に刻まれた濃いシワや、意志の強そうな顎。それを見る側に印象付けるような写真なのだ。

女性作家のポートレートで、シワやごつい骨格を強調するものを取る人はあまりいない。それより、シワや骨格はソフトフォーカスでぼかして、美しい瞳や滑らかな肌、あるいは輝く髪を強調するかもしれない。男性の老いやくたびれた様子は「味わい」になるが、女性のそれらは「美しくない」。その法則が作家のポートレートにも当てはまるのだろうか。そんな単純なマーケティング心理だろうか。あからさまなビジュアルの判断基準が、作家という文章で脳の奥に直接働きかけてくる存在のイメージにまで適用されるのだろうか。

私はどれだけ痩せても十分に痩せたという気持ちになれない。痩せさえすれば望んだ見かけになるというのは幻想で、痩せても顔の骨格は変わらないし、腰骨は張ったままで少年のように細くなることはない。あいまいにビジュアライズされた作家のポートレートは、理想の自分になれないという私の不安を掻き立てるように、追いかけてくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?