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ねことマスター

吾輩は猫である。

明治38年に夏目漱石が世に送り出したこの1文には、猫の特徴が良く表れている。「吾輩」という尊大な気持ちをまとった一人称、「猫である」と言い切る堂々たる態度。にもかかわらず、ときには甘え、人の心を癒す力を持っている。ふてぶてしさと愛らしさが共存した猫という生き物は本当に不思議な存在だ。

マンガ『ねことマスター』は、銀座に実際にあった喫茶店・ニューキャッスルを舞台に、実在した看板猫「ポンちゃん」をモデルにした物語だ。銀座で捨てられた子猫が、喫茶店のマスターと出会い、喫茶店の軒先に住み着き、看板猫として慕われていく姿を優しいタッチで描いている。この本、よーく見てほしい。なんとも粋な本作りになっているではないか。

ぜひページを開いてみてほしい。本書のほとんどのページは2色刷りで作られている。冒頭はポンちゃんが銀座の街角に捨てられるシーンから始まる。寒々とした銀座のビル街、子猫を平気で捨ててしまう人間の姿はすべてモノクロで描かれている。だが、ポンちゃんの姿だけは2色で色付けされているのだ。マスターをはじめ、銀座の人たちがポンちゃんとの交流を深めるたびに、徐々に周りが2色に変わっていく。猫の不思議な魅力が銀座の人たちへゆっくりじんわり伝わっていく姿を、絶妙な色づかいで表現している。

猫の一生は人間より短い。猫と暮らすということは、その瞬間から最期を看取ることを覚悟しなければならない。動物とともに暮らすことは常にその悲しみと隣り合わせなのだ。であるがゆえに、猫たちにとっての幸福とは何かを常々考える。家猫として一生を終えるより、気ままに外を歩いていた方が楽しい人生にはならないか。療法食より好きなものを腹一杯食べた方が幸福感に満たされるんじゃないか。治療を長引かせることが「家」という安息の地を奪ってしまうことにはならないか。どういう選択が猫にとって最も良かったのだろうか、と。

言葉が通じない存在だけに、その疑問はずっと心に残り続ける。以前、縁あってある猫の最期を我が家で看取ることになった。家に迎えるまでは半地域猫のような生活をしていた猫だ。あのまま元の場所で気ままに暮らしていた方が彼女にとっては幸福だったのかもしれない、という気持ちが今もずっと心に残っている。彼女は終末期、よく外へ出たがった。治療のために薬を飲ませていたのがとても嫌だったらしく、そのせいで彼女にとって我が家は安息の場所ではなくなってしまっていたのだ。なるべく負担のないかたちで治療をしていたのだけど、果たしてそれは正しい行為だったのだろうか。今でも迷いは拭えない。

著者の作品には、ただの愛らしさだけではない猫の現実が目を背けることなく表現されている。愛玩として、流行としてだけではない一面が、動物ゆえに当然ある。生き物と暮らすことはどういうことなのか。ぜひこの1冊で体験してほしい。

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