見出し画像

視線の数

AさんとBさん。ここに2人の人間がいたとしよう。お互いは向き合っている。さて、問題です。この時、AさんとBさんの間に行き交う視線の数はいくつになるでしょうか?

大学時代に受講した講義で、ひげ面の社会学者が得意げに問いかけた問題だ。AさんとBさん、2人しかいない。ふつうに考えると視線は行き交う2つだけだ。しかし、社会学で考えるとその数は倍の4つになる。AさんとBさん、各々が2つの視線を有しているのだ。目の前の相手を見つめる以外に、相手の瞳に映る自分を見る、という目線があるらしい。Aさんにとって、視線を送る相手であるBさんの目に自分がどう映っているのか、誰しも自然と意識をして行動しているというのだ。

直木賞作家・恩田陸の著書『木洩れ日に泳ぐ魚』(文藝春秋)では、登場する2人の視点が交互に描かれることによって4つの視線が交差し、物語がくっきりと立体のように浮かび上がっている。はじまりは、とあるマンションの一室。同棲を解消する最期の夜の話だ。段ボールや家具を乗せた引っ越し業者を見送った閑散とした部屋で、男女2人が最後の晩餐を始める。2人には互いに今夜、確認しておかなければならないことがあった。1年前、事故死とされたある男性を、殺害したであろう人。男も、女も、その真犯人を心中でお互いなのではないかと疑っている。目の前に座る相手が殺人者ではないかという恐れを抱きながらも、2人は酒を片手に互いの腹を探り始めるのだ。

登場人物は男女2人。シチュエーションはマンションの1室。その手探りのやり取りを、揺れ動く心情を、手に汗握る切迫を、せせらぎのような筆致で描き出す恩田節に、脱帽する。登場人物が駆け巡ることもなければ、新しい事件が次々起こるわけでもない。ただ、向かい合って過去の出来事とそれぞれへの想いをとうとうと確認していく物語だ。ストーリーラインを追うことが好きな人にとって、少々読みづらい本のように思える。世間の評価が分かれているのもおそらくこの点が大きく響いているのだろう。

2人は1年前の事件というフィルターを通して、目の前の相手へ自らの思考を津々と深めていく。当時の記憶を呼び起こしながら、当時の行動に疑心暗鬼を抱きながら、自分自身や目の前の相手がいかなる人間なのか、という「解」をつかみ取る。どんなに血がつながっていても、どれだけの期間一緒にいても、どれだけ過去の記憶を共有していたとしても、結局人は自分自身以外のことを理解できないのだ。ましてや、自分のことすら多くを理解できていないのだ、と。人間という不器用な生き物を、物語を通してひしひしと痛感させられる1冊だ。

先日出会った旧友は、視点の講義が社会に出て本当に役に立ったと語った。そう、相手のことが理解できないということは、相手のことを理解できないという前提に立った会話ができる、ということだ。そのことだけで、僕らは相対する人のことを少し理解できているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?