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「正しさ」を外した跡に何が残るのか

正しさを外した跡に何が残るだろう。
「支援者たるもの『良き理解者』であれ」とケアや療育の世界ではよく言わる。この「良き理解者」というのは、その言葉が登場する分野(医療、福祉、ジェンダー、家族関係)や使われる概況が違っても、意味合いはそう遠くない印象を持つ。さて、このメッセージを発信する人、立場または、団体やその背景にある考え方・思想から「良き理解者たれ」と放たれた矢印の先にいるのは誰だろうか。また「良き」とアセスメントするのは誰なのだろう。なぜ「理解者たれ」ではないのだろう。

「良き〜」というアセスメントが伴う、伴っているということはその反対側があるということだ。「悪しき理解者」または「悪しき無理解者」か。ぱっと思いつくのはこの2つだが、「良き〜」とメッセージを発信されるということは何かそうではないことが問題になっているはずだ。その「悪しき〜」から「良き〜」なるものに変わることで、そこにある課題は解決に向け正しい方向へ進む。そういうことが期待されているはずだ。それはわかるのだけど、だれの期待で、だれが評価するのかというところで、僕個人はどうしても躓いてしまう。

「支援者」というものは「被支援者」というものがあって成り立つ。つまり冒頭のメッセージには省略されている箇所があり実際は「支援者たるもの『良き(被支援者の)理解者』であれ」ということだ。「被支援者」とは「当事者」と言い換えられるだろう。この「良き〜」と評価するのは当事者のはずなのだけど、さて。「支援者たるもの『良き理解者』であれ」と発信するものと「被支援者」または「当事者」はここでイコールで結ばれるだろうか。結ばれているだろうか。そんなところで僕は躓いてしまう。このメッセージが向かおうとしている「正しさ」を一旦脇に置いたときに、どこからどこへ矢印が向かおうとしているか。はてさて、そのときここで言う「当事者」はどの位置関係にあるだろう。


当事者が端っこで「良き〜」を叫ばれる

そもそも僕は「正しさ」を求められると苦しさを感じてしまう。法人の代用理事で施設管理者でもあり、ケアの現場のスーパーバイザー的に介入することも多い。だから「正しさ」についてのメッセージを発信する機会も多い。支援やケアについて「理解者」であろうとするならば、支援やケアの対象となる被支援者や当事者の人に対してだ。経営や運営についてならば、法人や事業そのものに対する理解者ということになる。どちらも決して管理者である僕ではない。代表理事である自分も、アセスメントされるべき理解者として期待を担う側であるだろう。だから「良き理解者」というときに、手放しにそうだそうだと言ってもいられない。誰よりも「正しさ」を理解し評価に晒される立場になる。むしろ当事者の「理解」とは何かについて、スタッフと探り考え、そのための環境づくりが必要だ。メッセージを発信はすれど「理解される」ためでも「評価する」ためだからではない。自分にとっての「正しさ」を一旦脇に置いたまま「当事者」の声を聴こうとすることが一番大事なことだったりする。そもそも当事者は「当事者」というものではなく、名前があり感情や身体のある生身の人間だ。でも「良き〜」と大きく正しい力のあるメッセージは、果たして「そこ」から発せられているか。発信者のズレは、「私は良き理解者だけど、あなたは違うよね」という偏見が見え隠れする。正しさという眩しさの死角に張り付いているものがある。


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