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「ない=ある」に気がついたとき、人は輝き始める

  しょこたんこと、中川翔子さんの「死ぬんじゃねーぞ!!」を読んだ。等身大のことばで、漫画で、対談で、彼女の〝どうにか伝えたい〟という想いが非常によくわかる本で、そこに胸を打たれて整形外科の待合室で思わず涙が溢れそうになった。いじめられた経験を思い出し、文字にするというのは再び同じだけの傷を負うようなもので、それでも、そうまでしても〝今〟苦しんでいる子どもたちに想いを届けようと奮起した彼女は本当に立派だと思う。一人でも多くの悩める子どもたちに届いて欲しいと心から願っている。

  さて、今回は少し視点を変えて。わたしはニート時代の数年間、しょこたんのブログを読んでいた。お金も物欲もあまりない中で、わたしが買った数少ないものの一つが「しょこまにゅ」というしょこたんのフォトブックだった。彼女は〝貪欲〟ということばを頻繁に使い、実際貪欲に生きていた。今回「死ぬんじゃねーぞ!!」を読んで、彼女が生き急いでいた理由がわかったような気がした。

いじめで悩んでいた時間に、あんなこともできた、こんなこともできたと考えると本当に悔しい思いだった。それを取り返すためにも寝る時間を削ってでも、本を読んだり好きなことを吸収しなければならないと極端な考えになっていた。

  あれもできた(ない)、これもできた(ない)、この「ない」にフォーカスして、不足を補おうと努力していたのだろう。しかし、それは苦しく大変なことだ。続いて彼女はこう述べている。

でも二十代後半になってようやく、あの十代の「暗黒時代」が今の自分を作ったんだと思えるようになった。キラキラした青春を謳歌しなかった分、本を読んだり、音楽を聴いたり、歌を歌ったり、漫画を描いたり。その全部が今自分の役に立った。

  この〝ない〟の裏側にある〝ある〟に気がついたからこそ、彼女は今、アニメや漫画や歌といった自分の好きな分野の仕事を得て、キラキラと輝いている。もちろん「わたしにはこんなことがありますよ」と発信していたからこそ、なのだけれど。「暗黒時代」に思えた時間は、間違いなく「黄金時代」だったのだ。

  一日は二十四時間、これは誰にでも平等だ。アクティブなことだけが「何かをした」だと思っているなら、それは勿体ない。ベッドでゴロゴロすることも、テレビを観ることも、同じように「何かをした」なのだから。そう思ったら、肩の力がすーっと抜けていかないだろうか。そういえば「優しいというのは優柔不断ということだし、真面目というのは融通が利かないということでもある」そんなことを言っていた人がいたな、とふと思い出した。

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