エッセイ_009

【エッセイ】人生演劇論【#009】

(この文章は、約8分で読むことができます。)

私が演劇を始めてから、今年で8年になる。途中、舞台に立つことがなくなったが、演劇に関する勉強を欠かすことはなかった。そこで、私が演劇をやって感じた、私なりの演劇論について、気の向くままに書いてみようと思う。

ちなみに、今回に限らず、私の持論に対して、批判をしていただくことは大いに結構である。批判もいただけないような主張、作品には何も価値がないと思っているからだ。

まず、私は「変人だから演劇やってるんです。」と言って、「演劇=変人」とイメージで結びつけて演劇をやっている人間が大嫌いだ。「演劇やってる私って、他の人よりちょっと変わってますよねー」と言って、「演劇=変わったこと」とイメージして演劇に携わっている人間が大嫌いだ。

そもそも私の考えでは、変人っていう存在は本当に稀有なものだし、本当の変人は、自分が変人かどうかがわからない、というよりは、そんなことを考えもしない人間であると思っている。

「私、変人なんでー」とか宣う人に限って、つまらない人が多い。変人になりたい大凡人であることに疑いはない。あくまでも、私の主観だ。

しかし私は、人間皆、凡人であり変人だと思っている。どんな人にだって、個性はある。私の27年の人生の中で、個性が全くない、その人らしさを持っていない人に出会ったことがない。教師をやり、多数の生徒を見てきた私が、だ。

個性があるということは、普通のことだ。普通であることが凡人であり、他人と差異があることが変人であると定義づければ、人類は皆、凡人であり、変人である。

「私なんかに個性はない」と言い張る人も、その個性がないと思っていることが個性であるし、個性がないと思い込む強情さこそ、まさに個性である。さらに、この文章に目を通している段階で、こんな男の文章を読む物好きという個性があるのではないだろうか。

話が脱線してしまったが

演劇をやる人=変人という理屈は、この世に変人という側面しか持っていない人間は存在しないという段階で破綻している。

それはさておいて

今までの話の流れの変人・凡人という使い方を一回忘れてもらって。演劇は変人にはできないという考えが私にはある。そして、人間であれば、誰しも役者であるため、演劇をすることは誰でも可能であることも併せて主張したい。

まず、主張の一点目「演劇は変人にはできない」

演劇論というものは、この世にむせ返るほどに溢れている。私の演劇論に異論が出るのは当然のことだと思って、読んでいただきたい。

まず、演劇を誰に向けて行うことかという問いである。

演出、観客、自分、脚本家などなど、この問いには数え切れないほどの答えが存在する。

私の答えは、お客様だ。これは、私の人生のテーマが、「楽・快・爽・笑」であり、これらを他人に感じてもらうことが、私の最上の喜びだからである。また、私が初めて見た演劇が、観客を楽しませるために行われたものであるということも、私の考えの大本になっているのだろう。

観客に向けて、演劇を行う場合、最も大事なことは観客をいかに引き込むことができるのかという点である。

変人が単純に、世の中が受け入れることが難しいほど変わっている人間を指す場合。そういった人物を見るだけで、あるいは、その一挙手一投足に観客がドン引きしてしまう確率が生じる。これは致命的だ。「引く」という言葉の意味が違う。

言わずもがな、その役柄を理解し物語になじむために、観客がドン引きする演技をしているのであれば、全然構わない。そういった役者は、普通を理解し、普通を体現できるから、異常も理解し体現できる。その役者は、普通を理解している点で、全く変人ではない。

ここまでをまとめると、私は観客に見せるために演劇を行うべきだと考えている。これが前提。そして、観客のために演劇を行うためには、観客を楽しませる、引き込ませる工夫が必要である。そのために、一般的に理解できない行動をとる変人は、観客の度肝を全く望まない形で抜くことになるため、演劇には不必要である。

以上が、私の今回の1点目の主張である。

そして、2点目の主張「演劇は誰でもできる、むしろ、行うべき」

人生の中で、「この場面でこれを言ったら、怒られるから、場の空気を壊すから言わないでおこう」という経験をしたことはないだろうか。

あるいは、

「ここで、こんなこと言ったら、褒められるから、言っておこう」と目ざとい計算をして、発言をしたことはないだろうか。

おそらく誰しもがある経験ではないだろうか。会社で、学校で、家庭で。頭の中でいろいろな計算をしながら、人間はコミュニケーションを行う場面がある。

こういった場面で行っている、発言を我慢する、発言する、発言内容を本心とは違うように調節する、といったことは、演劇で舞台に立ちセリフを述べることと何ら違いはないと考えている。

人間は誰しも、1つ1つの発言を頭の中で作成し、それをどのような形で伝えるべきが常に考えている生き物なのではないだろうか。もちろん、意識的に行う場面もあるが、おそらくそのほとんどは無意識的に行われていることだ。

「人間はポリス(市民社会)的動物である。」とアリストテレスが述べているように、人間の動物的本能には社会の調和を乱してはいけないという本能が組み込まれているのではないだろうか。

意識的にでも、無意識的にでも、自分の頭のなかで作成したセリフを述べるということを、日常生活で繰り返している以上、誰しもが、セリフ(作られた文章)を述べることが可能であると、私は考えている。

コミュニケーション能力に長けている人は、社会を円滑にする能力に長けているとも言い換えることができる。そういった人は、間違いなく役者としての才にも長けている。頭を使って普段から会話を行っているからだ。

脱線するが、コミュニケーション能力に長けている人と、世間一般的に変人と言われている人の印象は、対極に位置していないだろうか。この点を持っても、変人は演劇に向いていないのだ。

話を戻そう。つまり、私の言いたいことは、人間は誰しも、自らが考えたセリフを述べて日常生活を送っている。そのセリフは意識的に考え出されたもの、無意識的に考え出されたもの、この二つの差は一切関係ない。演劇は、セリフを舞台上で自分の本心かのように発言することが求められていることの1つである。ゆえに、人間は誰しも、セリフを喋ることができるという点で、演劇を行うことができる。

そして、もう1つ。

人生を生きていくことは、演劇の舞台に立っていることと、まったく同じであるということも言いたい。

生きていく中で、人と交わらずに生きていくは不可能である。人間が生きていく何らかの場面でコミュニケーションは行われる。コミュニケーションは、人の目に触れるものだ。その人の目に適うために、試行錯誤してコミュニケーションは行われている。

この行いは、演劇の舞台で、観客の目に適うように、試行錯誤を行う役者のそれと何ら違いはない。ゆえに、私は、人生を歩むことと演劇の舞台に立つことは、まったく同じであると主張しているのだ。

さらに、もう一歩主張をすすませる。

コミュニケーションの試行錯誤は人により、様々な形で行われる。この様を見ることは、面白いし、楽しい。自分をさらすことに、絶大な勇気は必要であるが、さらさないことが人類にとって、どれだけの大損であるのかをまだ気づいていない人が多すぎるのだ。

あなたのその試行錯誤の様を見て、楽しんでくれる人、面白いと思ってくれる人、興味深いと思ってくれる人、さらには、それに勇気づけられて明日への生きる希望を持ってくれる人がいることに、多くの人は気づいていない。あるいは、それは自分の仕事ではないと思い込み、気づかないふりをしている人がいる。

声を大にして言いたい。人類は皆、演劇を始めるべきだ。

あなたの試行錯誤を見て、勇気づけられる人は必ずいる。

あなたの試行錯誤でしか、勇気づけられない人が必ずいる。

人類は皆、変人だ。面白い。間違いない。

もし、演劇に立ちたいが、その術がない、勇気がない、他人に見てもらう技術がないという人は、私が喜んで協力したい。

最後に、

私の今回のエッセイについて。

「変人は演劇をやるな」という主張と、「人類は皆、変人だから演劇をやれ」という主張が存在しているのだ。

しかし、決して矛盾はしていない。これが、日本語の奥深さ。また、人間の奥深さである。

ただ、私の考えていることの半分も表現できない文章力の無さ。

これは、言い訳ができない大問題である。

精進します。

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