ミュンヒハウゼン男爵とキリスト①-『自由の哲学』より-

今より後われ汝らと多く語らじ、この世の君きたる故なり。彼は我に對して何の權もなし、 されど斯くなるは、我の、父を愛し、父の命じ給ふところに遵ひて行ふことを、世の知らん爲なり。起きよ、いざ此處を去るべし。(ヨハネ福音書14章30-31節)

『自由の哲学』の九章に次のような一文があります。

Aber mitten aus der Zwangsordnung heraus erheben sich die Menschen, die freien Geister, die sich selbst finden in dem Wust von Sitte, Gesetzeszwang, Religionsübung und so weiter.

しかし、習慣、法的強制、宗教的貫行などの泥沼の中で自己を見出す自由な精神たち、人間たちには、その強制的秩序の泥沼の中から浮かぶ瀬があるのだ。(私訳)

私はこの文章に、「底なし沼の中から自分の髪の房を摑んで宙に浮かんだ」というミュンヒハウゼン男爵の物語のイメージと「私ではなく私の内なるキリストが生きる」のイメージの双方を重ね合わせる形で見て取りました(ミュンヒハウゼンのことは2章に登場します)。キーワードとなるのはsich erhebenの意味です。

第一に、キーワードとなるのはsich erhebenの意味です。私はsich erhebenを「浮き上がる」と捉えました。die Zwangsordnungとder Wust von Sitte, Gesetzeszwang, Religionsübung und so weiterは同じものと捉えられます。私はこれらを、「底なし沼」と同じく、なかなか「抜け出す」ことができない悪い状況と捉えました。「sich erheben」=「浮き上がる」=「抜け出す」というイメージです。「しかし、この悪い状況の中で「自己」を、つまり〈私〉=「大文字のIch」を見出すことができる者たちは、その悪い状況から「抜け出す」ことができる」。つまり、彼らには底なし沼から「浮かぶ瀬がある」ととりました。これがまずミュンヒハウゼン男爵のイメージと重なります。

第二に、このように解釈すると、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という日本語の諺が思い起こすことができます。「水におぼれかかったとき、下手に足掻けばいよいよ深みにはまりこむが、ひとたび運を天に任せて身をゆだねると、浮き上がることができる」ということで、「自分自身を捨てる覚悟で物事に当たれば、はじめて活路が開け、成功する道もおのずからできてくる」ということを意味しています。上記の『自由の哲学』がこの諺と類似していることは見て取れるかと思います。底なし沼に溺れているのは小文字のichです。この小文字のichがもがけばもがくほど、底なし沼の深みにはまる一方のアスラ状態ですが、この底なし沼の中で大文字のIchを見出す者は、小文字のichを捨てる覚悟で物事に当たる者であり、その者においては、「私ではなく私の中のキリストが生きる」ということになるのではないでしょうか。


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