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春は詐欺師のように

こんにちは、こんばんは。
ドラムの髙木です。

僕の名前である「髙木」の文字表記は梯子高の「髙」を使います。
「高」ではなく「髙」なんです。細かい話ですが。

けど、最近はもうどっちゃでもいいなと思い始めています。

昔は変なこだわりがあった、というか「髙」であることにアイデンティティがあるような気がしていました。
なので、頑なに「髙木」を使ってきたし、読み方が同じ「高城」には嫉妬さえ覚えました。だって、文字面がカッコいいんだもの。

もちろん名前は自身を成す大切な要素なのですが、こんな細かいことに固執しても誰も気にしていないんじゃないの?
と、大人になるにつれて受け入れられるようになってきた気がします。

けど、こういう独り善がりなプライドって僕は結構好きなんです。
尖っているという言葉が適切かわからないですが、小さなコンプレックスにもがいていることに人間としての面白味がある気がします。

そう言う意味では僕から棘が一本抜けてしまったようで少し寂しいですね。


花見シーズンがあっという間に過ぎ去り、東京では早くも春から夏へ移り行く準備がはじまっているような、そんな風が吹いています。
それにしても、今年の春は比較的「良い春」でした。
というのは、春っていつも詐欺師的だと思うんですよ。

冬の寒さが落ち着いた頃合い、急激に冷え込むことがあるじゃないですか。
「もう寒いのは嫌だ!」と絶望したところを見計らってふっと春は息吹くんです。
『大丈夫だよ~。冬は終わりだよ~。』と優しく語りかけてくるんです。

これって既に詐欺の手口に近いものがありますよね。
大きなマイナスを与えたとこに大きな希望を配置するあたり、人間の心理を操るストーリーが出来すぎてると感じざるを得ません。

当然、春は僕らに甘い汁を吸わせ懐柔させてきます。
空は青々と澄み、桜が満開になり「あぁ、ありがたや。」と頬が緩みます。

しかし、その瞬間を狙っていたかのように悪天候が地上を襲います。
寒気に満ちた日々が再び始まるわけです。
ようやく冬が終わった安心感と、穏やかな毎日に期待を膨らませた僕らを嘲笑うかのように春はドロンと消えてしまう。
これが通例の春です。(※個人の感想です。)

まあ、それによって何か実害を被っているわけではないので、詐欺師扱いは違うのかもしれません。
ですが、期待させときながら突き放すのは毎度のこと酷いなあと思っています。

そういう意味で今年はポカポカした春らしい春を迎えられてとても満足しています。
もしかしたら、これも我々を懐柔させるための作戦なのかもしれませんが。


「マルハラ」がちらほらと話題になっていますね。

知らない方に説明しますと、「マルハラ」とは”マルハラスメント”の略称で、SNSやLINEのようなチャット上で「。(句点)」を使った文章を用いると若い世代は威圧感を与えてしまうというものです。
例えば『了解です。』といった文面を送ると、「了解と言ってくれているけど、本当はなにか不満なのかな?怒っているのかな?」と不安を感じさせてしまう、みたいなことです。

なんとなく言わんとすることは僕もわかります。
「了解です。」よりは「了解です!」と言ってくれたほうがハツラツとしていて気持ちがいいですもんね。

しかし、ちょっと考え方を変えてみると「。」が付いていることは、それだけ送り手に時間的・精神的余裕がある状況だと言えるかもしれません。

本当に忙しいときって「了解です」のように、句点も感嘆符もつける余力がない気がします。
相手に怒っている時も「こいつに丁寧な返事を送りたくねえな。」みたいな天邪鬼な心って生まれませんか?僕だけですかね?

ともあれ、「わざわざ句点を添えてくれている」と考えれば、怒っているように見える文面も今までとは違って見えるかもしれません。

感じ方は人それぞれだけど、そうじゃないところに重きを置いておきたいなと改めて思いました。


今日は最近思った小話をまとめて書いてみました。
また、次回の記事でお会いしましょう!

それでは!

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