アイドル部騒動から大体1年

昨年、Vtuber界の一部に波乱を呼んだ「アイドル部騒動」と呼称している出来事から概ね一年が過ぎた。
後にec騒動が表面化したある出来事により当時の出来事が再評価される流れも観測できたが、後知恵バイアスとは恐ろしいもので極端な評価の逆転も見られる。
人は良くも悪くも過ぎた事の記憶がぼやけ、教訓を忘れてしまうどころか目的を見失ってしまう人もいる。そうならないように物事を見る目は曇らないようにしたい。今回は目まぐるしく出来事が推移したアイドル部騒動とその後の印象から嵌る「目が曇ってしまいがちな例」を挙げたいと思う。
本記事については筆者の主観による印象も多分に含まれている事を先に注釈させていただく。

・はじめに

当時の表面的に起きていた出来事については昨年のnote記事に記載しているのでここでは割愛させていただく。

当時の水面下事情まで含めて出来事を見た上で、陥ってはならない認識については非常に良いnote記事があったので下記に引用する

・後知恵バイアスの危うさ

後知恵バイアスとは「物事が起きてからそれが予測可能だったと考える傾向」のこと。特にアイドル部騒動はec騒動と密接な関係性があり、表裏に発生していた出来事が複雑なこともあって後から見たからこそ陥ってしまう認識の歪みがある。
個人的に注目したいのは「夜桜たまが「正義」または「悲劇のヒロイン」であったとされる論調」である。ec騒動の表面化によって当時はほとんど知られていなかったecとしての活動(の疑惑)が知られるに至り、その過程で契約解除後の裏垢を用いた行動(の疑惑)についても認識が広まった。この時の出来事から「夜桜たま側が正義」「夜桜たまは悲劇のヒロイン」という認識を確立させ、転生後の成功に至ったという論調はec騒動に触れる人に程見られる傾向に思える。しかし一つ疑問がある。それは
「あの裏垢の一連の動きはそんなに広く認識されていたのか?」
という点である。
ecの書き込みによって誘導されていた”見せるため”の裏垢であり、ある程度認知されていたのは確かだと言えるが匿名掲示板のアンチスレでの誘導が発祥地である。そこから多少拡散されたとしても当時にかの裏垢を認識していた人はそう多くはなかったと考えている。楠栞桜のnote投稿者IPがかねてより本人と疑われていたecの書き込みIPと一致したという話が広がるまでec騒動を多くの人が知らなかった(皮肉にも知られていなかったからこそセンセーショナルな出来事として一気に広がった)。
「IP一致は元々あった疑惑をさらに強固にした」という部分を認識している人なら転じてそれまでアンチスレとその周辺で起きた動きはほとんど表面層には認知されていない事も理解しているはずなのだが、この裏垢の動きだけは奇妙な程夜桜たまあるいは楠栞桜の悲劇のヒロインという立場を決定づけた出来事とする論調は少なくない数が見られる。知っているからこそそう見えてしまうという後知恵バイアスの危険性である。一連の行動による影響はあっただろうが、視聴者数基準でも数千と離れたアイドル部のアクティブ層の動きを説明する根拠はこんな単純なものでは無かったと考える。

・レッテル貼りの危うさ

はじめにで引用したMary Sue氏のnoteにもレッテル貼りの危険さが記されている。十人十色で思想も言動も異なるものを形にはめ込んでしまう魔法がレッテル貼りである。このレッテル貼りが悪く作用してしまったのがばあちゃるの「モンペ」発言である。
事の経緯を簡単に説明すると当時予定されていたイベントのゲストには犬山たまきと神楽めあが招待されていたが、アイドル部ファンの中でその人選は否定寄りの賛否両論だった(経緯の詳細については長くなるので割愛)。だが、一定数のファンがそれに明確に批判的な言葉を発した動きを指したばあちゃるの言が「あの家の子とは遊ぶなって言ってるモンペみたいな~」である。これは批判的な言葉を発していた層は勿論として、言葉に出しこそしないが人選を疑問視していた層にまで波及してしまった。個人差があるので何とも思わなかった人もいたが、一方で意見としては否定寄りだった人が「モンペと括られた」と解釈してしまった例も散見された。この「明確なライン引きがあるわけでは無いが一定範囲に無理矢理まとめてしまう」レッテル貼りは意図しない層を巻き込む危険がある。そして一つのレッテルによるカテゴライズを行うと「そうではないもの」のカテゴライズに連鎖する。これは「モンペ」と「全肯定おけまるbot」という蔑称合戦になった当時の動きを見ればよくわかるだろう。(全肯定おけまるbotという蔑称自体がこの時に生まれたかは不明だが、使われる事が明確に増えたのはモンペ騒動以降だったように思える)
アンチとはその人の行動そのものより「お前のやっている事はアンチ」というレッテルが作り上げるものである。そのレッテルも用いる人によって定義が異なり意見が交わる場ではどんどんレッテルと言うのは先鋭化していく傾向にある。その結果生まれた分かりやすいテンプレートの一つが「夜桜たまのお気持ち配信の涙と裏垢の歌に釣られて付いていった楠栞桜信者」のようなものだろう。この騒動について追っている人なら一度や二度は目にしているのではないだろうか。
ec騒動を発端に掘りこされた「邪悪な楠栞桜」像に引っ張られるあまりそのリスナー層にまでレッテル貼りをして攻撃するのは既に手段の為に目的を選ばない状態に陥っており、本質的にはモンペと言われた人達と変わらない。

・二元論から来る評価の逆転の危うさ

先日Twitterでこんな画像を投稿した。

わるい

これは仲間内とよく見る騒動事について話した際のネタを画像化したものだが、アイドル部騒動とec騒動ではとにかくこれが多く見られたように感じる。顕著なのが楠栞桜を邪悪として見るあまりにアイドル部騒動において本当は.LIVEが一方的被害者だったと当時の風潮に対する真逆の評価をする声である。言い替えれば.LIVEの方がやったやらかしについては都合良く解釈したか忘れたように見えた。
その一例がマネージャー部発足時の動きである。話し合いが行われると告知され二ヵ月、ある程度覚悟していたリスナーもいたがそれでも二名の契約解除という事実は受け入れ難い程に重く葬式ムードが広がっていた中で明らかに不適切なテンションの高いツイートを行った。少しでも葬式ムードを明るくしたかったのか、意図は不明だが結果としてはモンペ発言、二名の契約解除と火種がある所に更に油を注ぐ形になった。
モンペ発言から連なるこの出来事は当時の.LIVEの信用を大きく落とす失点行為だったが、ec騒動が表面化しその悪辣な行為が表沙汰となると共に.LIVEに過失は無く全てec(=楠栞桜)の邪悪さによるものだったというのは「正義と悪」という二元論で見ていると陥る思考の罠である。
少なくともこの件については.LIVEにも小さくない過失はあったが、その脆弱性を悪意によって突かれた事で大きな騒ぎとなったというのが最も実態に近いと考えている。どっちかが悪ければどっちかは悪くないという単純な話では無いのである。

・私刑の危うさ

「相手が悪ければ何をしてもいいのか」はこの世で解決が難しいテーマの一つだろう。言葉上でこれを肯定する人は稀有だろうが、実際の行動となると潜在的な肯定となっているものは少なくないと思っている。
楠栞桜のnoteIPの一致騒動後には様々な"粗探し"が行われた。そこで大きく取り上げられたのが「麻雀におけるゴースティング疑惑」だろう。この疑惑自体の正否は本内容から逸れるので言及しないが、まさしくこれは悪意によって粗探しをされた結果である。そもそも疑われるような行動をするのが悪いと思ったらそれはすぐ上に書いた二元論に陥ってる証拠だ。極端にわかりやすい例に置き換えれば「相手が犯罪者ならストーカー行為をしても犯罪にならない」である。こう書けばそんな理屈が成立しないとすぐわかるだろう。
公的機関の捜査としてやるので無ければどんな建前を言おうが私刑であり、所謂中の人の過去歴まで探しに行くのは只のネットストーカー行為である。ecによる行動を悪意による行為と非難するが、一方でその邪悪さをより探究するという悪意の行動は肯定される。これは本来ダブスタなのだ
そしてこういった私刑の拡大が先述した「信者というレッテル貼りをしてリスナー層まで攻撃する」である。

・個人的に思うところ

これはこれまでのnoteでも散々言ってきた事だが、アイドル部騒動は誰かだけが悪いという話ではない。悪意も過失もあり複雑に絡み合った結果大きくなってしまったものだ。
前年にアイドル部騒動についてのnoteを書いた時、あえて表面的に起きていない事象については排除した。ecによる活動だと知ったのは後になってからだが、discordリークの噂については執筆時点で認識していたし、その後の裏垢の一連の動きもリアルタイムで見ていた。
騒動以降のアイドル部は登録者も視聴者も大きく減らし長い冬を迎えたが現在では非難の声は大分小さくなり、再建してトラブルなくやっているように見える。
しかし、忘れてはならないのはそこにもうトラブルが無くなったのか、表出していないだけなのかはリスナー層からはわからないシュレディンガーの猫であるという事だ。
アイドル部騒動が起きるまで.LIVEは業界最安定箱と言われていたように。
リスナーにできるのは結局表出していないだけの方ではなく解決して無くなった事を祈るだけなのである。