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自己診断MBTIの不確実性

はじめに言っておきたい、私はMBTIを否定したいわけではない。

むしろ自己理解が進み、人間が問題と向き合う姿勢を持つことは非常に喜ばしいムーブメントだと考えている。
その上であえて不確実性についてメスを入れてみたいと思う。

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MBTIが流行っているようだ。

かくいう私も、何度か複数の友人から送られてきたため受けたことがある。
誰とかは何で君はこうか…非常に面白く、新たな側面をみることもある。

そう、新たな側面なのである。

貴方も思ったことがあるのではないか。

「君は中々に1人で過ごすことが好きだと思っていた。」
「彼はあまり予定に縛られたくないような態度をとっていたような気がするが…。」

これは確かに余計なお世話なのである。
前者は、自分が厄介に思われていて、個人的に避けられている可能性がなきにしもあらずだ。
後者に関しても、順序正しい物事の取り組みを好むものでも、やはり人として苦手なことは目を背けたくなるし、当人の精神状態も関わる。
更に言えば数年前話題になったが大人の発達障害との関連性はどうなるのだろうか。
ADHDのような物事の優先順位をつけることが苦手と言われている人々は、○○○Jの該当率は実際0%なのだろうか。

このようにこねくり回さずとも、単純な不確実性を引き起こす可能性の予測は容易にして周知だ。

人はありたい自分であるというお墨付きが欲しい。

その限りではないのは自明だが、私の推測では性格診断、性格類型なぞに取り組もうという状態にある時分は、特にその傾向が強く出るのでないかと思う。
具体的には意識の有無に関わらず、これが自分だと思う(思いたい)自分に該当する選択肢を選ぶ。

つまり、出た結果に意外性がなく、そのタイプのアイコン、所謂ステレオタイプになるような人間は、比較的自己評価と他己評価に大きな差がなく、そして自分というものの傾向をある程度理解しており、ペルソナに一貫性がある人間である。

もしくは、こうである、こうでありたいというタイプが一貫しており、自分自身の生来の資質とは別に、診断結果に自らを合わせに行くカメレオンタイプ(確証バイアス)である。こちらは中々に難しい、複数の簡易性格診断を梯子しているため裏付けがあり、生来の資質を阻害しやすい。

ここ二つの差は非常に難解である。
しかし、これは持論だが、生来の資質というものはちょっとやそっとの思い込みや、矯正ではどうにもならない。

ちなみにこれは救いである。特に認識していないものに対しては、変えることなどできようものか。物や事は観測して初めて影響力を持つことができる。

話を戻そう。
自己認識と他己認識の差が軋轢を生み、同パターンの問題はその差を浮き彫りに示してくれる。
それを繰り返し、習慣や思い込みによって身についたものと、自らの資質を見分けることができるようになる。

資質に関しては後述、及び別記事でいずれ触れたい。

逆に、出た結果に意外性があり、タイプを理解する際に意識にのぼらない人間は、2パターンに分けることができる。1つ目は単純に自己理解が未成熟な場合、2つ目はペルソナに一貫性のない人間である。

後者に関しては2つのケースがある。それは、環境要因か自己要因か、具体的な要因は分からないが、生来の自分を出せない、出さない状況にある場合。
もう1つは、生来の資質を理解した上で、自己の側面における拡大や発展に挑戦、または広げた側面を使いこなしている場合である。

そして最後は全てに対して言える、「相対評価というものの歪さ」である。
周りからはそのような人だと思われていても、自らが「こうだと言いたいが、世の中上には上がいる」と思ったら、反対の選択肢を選ぶだろう。特にMBTIのような有名で、ステレオタイプがミーム化された材料では、かなりの高確率でそうなっている可能性が高い。

ここまで諸々不確実な結果が出る可能性のケースに関して述べてきたわけだ。
こう思われる方もいるかもしれない。
「では性格診断など眉唾だ、意味がないと言いたいのか。」と。

もう一度言おう、
私はMBTI、及び性格類型を批判したいわけではない。

じゃあMBTIは、性格類型は、性格診断は、自己診断の不確実性があるのになぜ必要なのか。

自己理解の一助となり、スタートラインになるからだと私は考える。

私は数多の性格診断、及び占いや自己認識、理解ツールに関して非常に肯定的だ。
またいつか記事を残したいが、特にエニアグラムは学会に通い詰め、大抵のまともな市販本は手にいれ、大学に論文を探しに行った。つまりかなり凝った時期がある。

占いも非科学的だと忌み嫌われるが私はそうは思わない。未だ証明されていないことを愛で、模索することを忘れれば、人類の新たな発見と発展は遠のくばかりだ。
知識は正誤ではない。体系的に繋がり、それは広がり、新たな発見に繋がるものである。単純に言えば浪漫があるのだ。こちらもかなり面白い、いつか文章にしたい。

しかし、私はこれら全てが人間の可能性を限定するものになった瞬間、意味と知識は塵と化すと考えている。

私は16タイプの内「INTP」という型であるという結果だ。
「INTP」の「I」という部分は「I:Introvert:内向型」「E:Extrovert:外向型」という2種類のどちらかが該当する。具体的には「I:何%、E:何%」と言った具合である。
つまり、私はどちらかといえば「内向型」、内的なものに影響を受け、影響をもたらすことに情熱を得るというわけだ。
しかし私の結果は「I:51%、E:49%」である。最早診断の数字だけで言えば日によるレベルだ。

最後の「P:Perceiving:知覚型」なんかも、よく予定の優柔性を好み期限にルーズ、などというステレオタイプがあるが、非常に状況による。納得しないものには時間をかける価値が見出せないためルーズにもなるが、合理性のある通常のすべきことは「J:Judging:判断型」らしいTo Doリスト的なワークフローで、期限に余裕を持った提出をする。確率的にはJの状況が多いが、上手くできなかった方が記憶に残っているため、結果として選択肢を選びやすいという可能性も考えることができる。あくまで仮定ではあるが。

いずれにせよ言いたいのは、人間は隠でも陽でもなく、全てなのである。

私は「I」的な所があるが「E」的な所もあり、現在の自分は「I」的な所をよく使ってきたが、これからもそうだとは限らないのである。
単純に%として偏っている部分も、「未だ使ったことがないだけ」にすぎない。

念のために言っておくが、不得意な部分を無理して己を叱咤し、開拓せねばならないという話では全くもってないことを断言しておく。
これは単純に自己開拓というものの方法を誤認しているにすぎない。

類型はあくまで自己理解のスタートラインに過ぎない。

貴方というの全ての可能性の一端であり、可能性が大き過ぎて切り取ってスタートラインを明確にしたに過ぎないのだ。
貴方が本当に何者でどのような資質を持ち、どのような可能性があるなんてことは、貴方と同じタイプの有名人などというもので示されるような、既知の二番煎じなどではないのだ。
それはきっと死ぬまで続く試みで、きっと死ぬまで広がり続ける可能性であろう。
いや、死んだ後にも他者の視点から観測され、振り返られることを考えると、死んでも広がる可能性なのではないか。
確か台詞で「本当の意味で誰からも忘れ去られた時、その時に人間は本当の死を迎える。」というものがあったと思う。

誰かへの憧れや同一化意識は、類型や占いと同じだ。憧れに力を貰い、参考にすることは、可能性を大いに広げる素晴らしいことだ。しかし、その人になってはならない。例え、完璧になりきったとしても、空虚なクローンの二番煎じに過ぎない。
2番煎じを誰が思い出そうか。思い出す時も1番目のついでだ。

貴方はより貴方自身になり、貴方という側面を拡大することが、即ち個体の拡大になる。類型は貴方を箱に入れるものではない。貴方という全ては、そんなにちんけなものではないのだ。
むしろ貴方という広大なものを観察しやすくするための虫眼鏡にすぎない。倍率で言えば量子顕微鏡だが。

結論、MBTI及び、自己理解ツールの全てはその不確実性が最大のミソであり、全ての可能性を言い当てるならば、極論人生を貴方として過ごす意味はない。

私はそう考える。

2024.3.5  [21:36]
退役軍人

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