母が死んだ
正確には、母が死んでいた。
私に物心がついたとき、すでに家には母親がいなかった。私が3歳のときに失踪したらしく、行方が分からなくなってしまっていたからだ。
だから、私には母親に関する記憶がない。知っていることのすべては、少し大きくなって聞かされた伝聞でしかない。
母親がいない家庭環境が、私にとっては子ども時代の日常だった。
『腹を痛めた我が子を母親は捨てられる』
その事実が、思春期の心を責め苛んだ時期もあった。長い時間が経ち、それに固執するようなことはなくなったが、私の人格形成に大きく影響したことは否めないだろう。
そんな私も実家を離れ、東京で暮らし、月日が経った。
実家には父と伯母が住み、兄も県内で家庭を持って生活している。母の失踪ゆえか、血縁者の愛情や絆を根本的なところで信用できなかった私は、多感な時期には家族と田舎町を嫌悪していたので、実家を飛び出すように上京した。
だが、今では数年起きに帰省するぐらいには家族の関係は落ち着いている。時間薬というよりは、私も歳を取って家族に過大な期待をしなくなったため、どうでもよくなったというのが正しいだろう。
そして――別に機会に詳しく述べることもあるかもしれないが――今年は16年勤めた会社がなくなり、同時に住む家も失い、身も心もボロボロになるという受難の年となっていた。
知人たちの助けで、何とか糊口をしのぎ、徐々に生活を立て直している真っ最中だ。
――そんなときに、兄からLINEで連絡が入った。
「30年以上会ってないお母さん死んだかも」
感情がざわめくのではなく、ピタッと固まってしまった。
3歳からだから、36年間会っていない。
今更なんなのだ? しかも、死んだことがどうした分かった?
兄に東京都某区の区役所から連絡が入ったという。生活保護を受けていた母――らしき女性が死亡し、その縁者を探し当てて、連絡が届いたようだった。
その手続きがはじまったのは今月4日。つまり、その女性が亡くなってから、二週間近く経っている。だが、それでも兄には連絡が届いたのである。そして、何故か、母は結婚時の姓――父や兄、私と同じ姓を死ぬまで名乗り続けていたようだった。
縁者がなく、このままでは区役所が火葬まで行い、無縁仏として処理されることになりそうだという。兄はいっしょに母の遺体を確認しようと連絡してきたのだった。
迷った。今更過ぎる。36年間、音信不通で面影すら憶えていない女性の遺体を確認してどうなる。しかも、その日はどうしても外しにくい仕事があった。だが……。
結局、仕事の関係者に頭を下げ、引き継ぎをして、遺体を確認しに行くことになった。
翌日、都内某所の葬祭場――。そこで兄と、兄の奥さんと落ち合った。
そして、3人で葬祭場の地下にある安置室に入る。
低いモーター音が無数に響く部屋にロッカーのようなものが並んでいた。
すぐに遺体安置用の装置だと気付く。映画などでみるものとは違い、表面に木目の壁紙が張ってあるのだ。
係の人は、そのロッカーを開け、安置用のベッドをスライドさせて、顔の部分だけ引き出すと、覆っている白い布を外した。
そこには、知らない老婆が、眠るように死んでいた。
死化粧を施されているので皮膚の色が明るく、死んでいるように見えない。保存が完璧なのか、死体に欠損は一切ない。やや肌が弛んでいるように見えるが、生前の姿を知らないので、なんとも言えない。
兄とも私とも、似ている気がしない。思わず、兄と「似ているか?」と確認し合ってしまった。
それで終わりだった。
何も感じなかった。
それ以上、何をすることもないので、係の人に挨拶をしてロッカーを仕舞ってもらった。
その後、兄と話しをした。父方の実家も母方の実家も、すべてを捨てて出て行った彼女を、墓に入れる気はないようだ。このままでは無縁仏として、どこかの公営墓地に埋葬されるというので、兄は納骨できる場所を探すと言う。
私は、正直、どうでも良かった。
兄がそうしたいのなら、そうするべきだろうと、賛成しただけだ。もし私ひとりだったら、区の処理するまま公営墓地へ入れてしまっていただろう。
兄の話だと、母だった女性は、都内某所で内縁の夫と暮らしていたらしい。だが、その夫に先立たれ、2人で暮らした家で独り暮らしを続けていたようだ。そして、最後には、何らかの病気で入院し、そこで亡くなったようだ。内縁の夫の縁者が、今回、兄にまで連絡が届くように手配したのだろうか?
だが、今の時代、病院も区役所も、個人情報だと言って母だった女性のことを基本的には何も教えてくれなかったようだ。葬祭場も兄が無理矢理聞き出したと言った。
兄の知っていることを一通り聞き、次は火葬の日取りが決まったら連絡するということで、私は駅で別れた。
帰りの電車に揺られながら、自分のことを分析する。
驚くほど、『母だった女性の死』に何も感じない自分がいる。さっき見たものも、母の遺体というよりは、見知らぬ女性の死体だった。
私は自分のことを「人でなし」だと思った。
私の人生は、母のいない人間として組み上がってきたもので、あの死体を母親と認識できない。幼少期は母なし子の境遇を恨みもしたが、その感情すら湧かない。36年のブランクというより、0なのだ。
8つ上の兄は、そうもいかないのも分かる。彼は小学校高学年で母を失っているのだから。
多分、私が彼女を母として認識するためには、「36年、どう生きたか」を知らないといけない。それまでは、愛することも、恨むことも、悲しむこともできない。でも、個人情報の壁で、それを知ることも難しいかもしれない。兄が、区役所や病院に積極的に掛け合っているので、知ることができるとすれば、それ次第だろう。
生来の性格なのか、物書きの性(さが)なのか。知らなければ、血縁者の死すら飲み込めないのか? 自分で自分を軽蔑する。
ただ、何かの防衛本能なのか、感情の動きがひどく鈍麻してしまっていた。悲しみも怒りもないけど、激しいストレスを感じていることは自分でも分かった。呼吸が浅いような薄らとした辛さを自覚する。
努めて、普段通りに過ごして、回復を待つ。
普段通りにtwitterをし、帰宅後、洗濯に行き、晩ご飯を料理する。死に触れた夜に、生臭いものを食うのもどうかと思ったが、とりあえず、肉の入った冷凍炒飯などを炒めて食べる。風呂に入る。家の前で「清めの塩」をかけたので、それが頭髪の間に入っていた。
翌日から三連休だったが、仕事をしようと会社に出社した。無人の事務所で、作業をしていたのだが……。
ダメだ。兄から連絡が入って以降、『母だった女性の死』にまつわる出来事が頭を離れていない。さらに感情が硬直したままだと、文章作業が上手くいかないことに気付いた。
最初はネットに書いて人に読ませるものでもない、と思ったが、どうしても吐き出さないと前に進めないと思い、今ここに思うままに書いている。
自分の中に渦巻く複雑な想いを、納得のいく形で定着させられない自分の文章力に反吐が出る。それでも文章を生業としてきた人間か、と。
だが、どんなに情報量が減衰しようと、今の私には吐き出すことが最優先なので、この場を借りて一気呵成に書いた。
まだ、何も終わっていない。だが、書いたことで、まずは一歩前には進めるだろう。
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