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勉強をすること、悔しいということ | エッセイ

悔しい、と思うことがなかった。

2歳から習っていたピアノも、中学のときに部活動で担当していたサックスも、勉強もテストも入試も就職も、1度として「悔しい」と思ったことがなく、また自分の選択や結果に対して「後悔」することもなかった。凪のような人生だった。

常に1番だったわけではない。
ほどほどの努力をしてほどほどの結果が出ればそれで私は満足だった。自分より上の人がいれば素直に祝福し、自分と比べることなどなかった。

生まれた家の裕福さや教育水準、地頭の良さや人間関係など選べないものばかりの中で、うまくいかなかったものすべてに落ち込んでいるのは時間の無駄だと思った。

ずっと憧れていた物書きの夢など非現実的で稼げない選択肢だからと、理系の大学へ進学してほどほどの会社へ就職し、ほどほどに活躍できる職を手に入れた。なんて順調で予定調和な人生だろう。最高だ。

2023年4月。私は社会人5年目ながら、通信大学へ入学した。
4年制大学は卒業しており、生活に余裕が出たため「ずっとやってみたかった文芸の勉強をしてみるか」と欲を出したのだ。

自分は文章を書くのが好きで、いい文章を書けるという自信すらあった。本気を出せば勉強なんてしなくても誰も敵わないようなものを出せる。先生もびっくりするだろう、オールS評価ではないだろうか。そうして迎えた最初の成績発表の日。

Sなど1つもなく、Bが踊る画面。
学友は私よりはるかにいい成績を貰っていた。意味がわからない、どうして、どうして、どうして。私はほかの人が公開した作品を読み、そこで理解した。

私が妥協して楽な道を選んでいる間に、ずっと本を読み文章を書いてきた人たち。
私がすぐにあきらめて見直しすらせず遊んでいる間に、何度公募に落ちても唇を噛んで努力を重ねてきた人たち。
こんな生半可な自分が、敵うはずがなかった。

後悔した。
生まれて初めて後悔した。

本当に好きなら、厳しい道のりを覚悟で挑むべきだった。私はずっと、怖かったのだ。本気を出して負けることが。自分のすべてを費やしたものが評価されないことが。大好きなことで、失敗することが。

自分に自信があるからでも自己肯定感が高いからでもなく、私はただ、私がどうしても選びたくて掴んだ道を歩き通す自信がなかっただけだった。

悔しい。あの時の自分の選択が、怠けていた時間が、すべていまマイナスの意味を持って私に降りかかっている。
自分の文章が100点をとれないことが悔しい。私よりずっといい文章を書ける人ばかりで悔しい。

考えても分からないことばかりで悔しい。できないことばかりで悔しい。悔しい。悔しい。悔しい……。

それから半年。誰よりも本を読んで誰よりも文章を書き、先生に質問して展覧会に足を運んで文献を読もうとしてきた。
失った10年間あまりを取り返すには、誰よりも努力をしなくてはいけない。甘えている場合ではない。思った成績が出ないときも多いけれど、「悔しい」をバネにもっといい文章を書こうと思えることが私にとっては大きな一歩だった。

納得できる文章をかけなくても、足りない部分を理解して補えるならいいのだ。失敗しても評価が低くても、それが私にとっても伸びしろだ。悔しくて努力して、報われたら嬉しくて。勉強って、本来はこういうものだったのではないだろうか。 

悔しい、という感情は苦しい。
泣き虫の私は馬鹿みたいに泣いてしまうし、自分はダメだと落ち込むことだってある。それでも。

悔しい、と思えることが、いまは嬉しい。
私が自力で前に進もうと努力しているという事実が、私はとても、嬉しい。

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