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「銀河鉄道の夜」は、「わからない」を乗せて走る。

「かなしい」が、繰り返されるところが、この作品の最大の魅力だと思いました。

たとえば、遠くに光る夜汽車、
夏の夜空の花火、
夢の国のパレード。
とても美しいものを目にしているのに、たまらなく切なくなるのはなぜだろうと、思います。
「銀河鉄道の夜」も、美しいのに「かなしい」。
その、理由を知りたくて、課題図書にこの本を選びました。

キリスト教の教会の「ステンドグラス」は、教義を絵にして、分かりやすく人々に伝える役目がある、といわれます。
童話に乗せて、教えを染み込ませようとしたこの物語も、同じ効果があると思いました。

「銀河鉄道の夜」は、それに加えて、美しい描写の隣に、強い「かなしさ」の表現があります。
家族の死を経験した賢治さんが、大事な教えを物語に残したいと思う。
でも、物語を喜んで読んでくれる、妹は、いない。
かなしくてかなしくて、たまらない気持ちを抑えられなくて、鉛筆を取っている気持ちが伝わります。
何回も「かなしい」表現が繰り返されるので、読者の私の頭は、スポンジのようにスカスカのからからになり、その無数のあなに、美しい描写を染み込ませるような読書体験ができて、心地よかったです。

授業であてられても、答えられない。
お母さんの、牛乳が届かない。
祭りにむかう仲間に入れない。
ジョバンニの、ないない尽くしに、読者の私の心が切なくなってきたころに、「列車」が登場します。

私が、この作品の中で、一番好きな場面です。

そこから汽車の音が聞こえてきました。その小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、りんごを剥いたり、わらったり、いろいろな風にしていると考えますと、ジョバンニは、もう何とも云えずかなしくなって、また眼をそらに挙げました。(角川文庫:P166)

私の日常の話です。
夕方、娘の塾の送迎で環状線を走ると、凪の海のように鉄色に広がる、太陽光パネル群が、左手に広がります。
その道路をまたぐ鉄橋の下を、私の車が潜ると同時に、「新幹線」が通過する時があります。
パンタグラフの火花が美しくて、まるで「銀河鉄道みたい!」
でもなぜか、新幹線のオレンジ色の窓の中には、誰も乗っていないように思えて、かなしい気持ちがします。
なぜだろうと思っていました。
今、本を読み終わった私の心の中には、大きなまっくらな孔がどおんとあいています。

「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。
ジョバンニは、そっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな穴がどおんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。(角川文庫:P219)

私の心の、どおんとした孔の中に、古い友人の笑顔が浮かびました。

長期間連絡がなかったのに、季節外れに年賀状を寄こした友人です。
違和感に胸が騒いで、電話で話をしたあと、死を選んだ彼女。
その突然の死が受け入れられなくて、私は数年間深く落ち込みました。
もう、何年も前のことです。

「どこまでもどこまでも一緒に行こう。」
ジョバンニは終盤、友人のカムパネルラに向かって、その台詞を繰り返します。
でも、どんな人とでも、ずっと一緒にいられることは無いのです。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、
どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか、百ぺん焼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」
カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。「けれどもほんとうのさいわいはいったいなんだろう。」
「僕わからない。」
カムパネルラがぼんやり云いました。(角川文庫:P218)

ほんとうの友人の気持ちは、誰にも分らない。
走る新幹線をみて、なぜ、かなしく思うのか、わからない。

私の心の深い孔のふちを通り、「わからない」を乗せて、私のこころの銀河鉄道は、走り出したばかりです。
わからないままで良い、列車は廻ります。
また考える時間がやってくると考えると、気持ちが明るくなってきます。

こんなに深く、一冊の本に浸ったことは、いままでありませんでした。
繰り返し読みながら、文庫本に引いた蛍光ペンの線は、
何色も重なって、りんどう色に光っています。
この読書によって、心にあいた深い孔が、これから私の眼に入るものの見方を変えてくれることに感謝します。

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