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歌姫幻像 その1

 歌謡とは、エンターテインメントとは、聴衆を慰め、癒し、励まし、勇気づけ、鼓舞するものであろう。
 どのようにも演じ、演じられる。
 例えば、演歌の「演」は、縁、怨、艶、援などと読み替えることもできる。
 本来は、虐げられたもの、踏みにじられたものたちの怨みをなだめ、そこにとどまることを諭す(慰撫、鎮魂する)ものであろう。そこから逸脱し、反抗し、反逆しないように、この枠組みの中で、怨み、つらみを抱えながら、あてもなく、望みもなく、それでも生きていくことを受け入れやすくする、それが演歌のひとつの働きである。
 ならば、歌を殺すべきか。
 
 歌謡曲、ポップスと変転してきたが、本質的な構造に変化はない。
 反対を、反抗を、反乱を煽る歌は、鄭重に排除されている。人々を不快にする、不安にする、不穏にする、歌も、ドラマも、映画も。
 あくまで、このぶつくさとした胡乱な世界を維持するために、多くの歌が歌われ、手ごろな消費物として受け入れられている。
 結果として、現在の秩序の維持に奉仕している。
 
 ではあるが、人間の作り出したものには、その意図したところから外れてしまうもの、踏み外れてしまうことが間々ある。
 その意図せざるところに、歌は、ドラマは、映画は、息衝き、永遠の時を刻み始めるのである。
 
 不倫報道とやらから金屏風会見に誘われ、つい二度見してしまう。
 悲しみにまさる不快、死に臨んだ人をあえて鞭打つ非情、非道の闇をむなしく照らすカメラのフラッシュが焚かれ、熱量を失った炎が静かに燃え尽きていく。
 芸能事務所の闇の部分を金の屏風で隠したつもりか。婚約発表と偽り、公開リンチの場に引きずり出したのか。活動再開のための捨て石か。
 古来、色恋沙汰に是非もないが、死をも覚悟したその苦しみの一滴すら、男の目には見えなかったのか。ただただ迷惑を掛けてしまってと謝る女に、どうして誠実な言葉ひとつ掛けられなかったのか。
 せめて、屏風だけは、普通のものにできなかったのか。人間というものの暗部(金色の輝きに目を奪われた)を見せられた気がする。後味が悪すぎる。
 その闇の深さに目を閉ざすことができないまま、画像は握手で途絶えた。意味の無い抱擁の身代わりを差し出して。
 
 80年代後半には、歌謡界への興味を失っていた。
 洋楽(ジャズ、ヒュージョン、R&B、ソウル、ハードロック、ヒップホップ等々)やオペラ(プッチーニ、ベルデイ等)、ピアノ曲(ポリーニ、、グールド、リヒテル等)を聴いていた。
 時代の節目に起こった未遂のこともほとんど関心がなかったというか、詳しい経緯は知らなかった。今、知りたくもない事実を前に突きつけられ、どう処理したらいいのか、途方に暮れている。
 

 

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