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おばあちゃんへの手紙 最終章-2

近づくにつれ、
この旅で何度も唱えてきた般若心経が、
ずっしりとした音量で腹に響いてくる。


ふと木々の間から、
見下ろすように開けた場所が見えてきた。


さらに近づいてみると、
そこで四隅を結界のように仕切った中、
薪が積み上げられ轟々と炎が燃え上がっている。



その結界の外を取り囲むように

法螺貝を首から下げた
山伏らしき修験者が数人、

手には太い数珠を爪繰りながら、
また時にこすり合わせながら、

懸命に炎に向かってお経を唱えている。


「今日は調度お寺の何か行事の日なのね。」

愛が読経に包まれたその炎の立ちのぼる情景を
見つめながら言った。

「うん、なんかこの旅のフィナーレに
ふさわしい光景に巡り会えたね。」


人の背よりも高く燃え上がる炎。

それを捉えて離さず結界ごと
包み込んでしまうような読経の迫力
まさに圧巻だった。

子供たちも口を開けたまま、
ただただ茫然と見つめている。


単調だが、
それ以外の一切の音の侵入を
許さないかのような力強い読経の音波が、

心の中の雑念を津波のように押し流していく。


問答無用で心が空になっていく。

燃え盛る炎は
時にパチリパチリと鋭い音を弾き出しながら、
ただただその姿を次々に変えて揺らめいている。

淡々と変化し続けるオレンジ色のうねりは、

まるで生きているかの如くで、
何かを語りかけているような気がした。


ふと存在は変わることで成り立っている
動的なものだと腑に落ちた。


変化を止めてしまったら、
もうこの炎は存在し得ない。


実はあらゆる事物がそうなのではないか。

この私だって
刻々と変化し続けるものの集まりだ。


爪も髪も皮膚もそしてこの心や気持ちさえも。

何ひとつ留めておくことはかなわない。

そして
子供の頃の私と今の私を比べてみれば、
一目瞭然別人だ。

これからも変わり続ける。

しかし人は、
自分の都合の良いところで、
この変化が止まって欲しいと願っている。

若さ、健康、成功、絆、、、

でもそれらも全て
変化で成立したものたちなのだ。


必ずさらに変化し続ける
我々のちっぽけな思いが、
この自然の法則に挑んでも、

地球という惑星に、
あるいは太陽という恒星に
たった1人の人間が
体当たりしていくようなもので、

無智の極みだ。

しかし現実は、
みんな真剣にそれを望み、願う。

叶うと信じて。



この炎が、
あるいはシャボン玉や花火が
綺麗だからといって、

誰もどこかに取っておこうとはしないのに、

実生活の中ではあらゆることに錯覚を起こす。


そうか、
これが仏教で諭すところの
“無明”というものなのだ。


そして、
すべての苦しみの始まりは、
この叶うはずのない願いを
持つことから生まれるのもよくわかる。


願いだって叶うなら、なんの問題もないはず。

しかし叶えた願いも
この変化の法則から生まれたものならば、
必ずいずれ望まぬ形へ変化していく。

それを手放さなくてはならない時が来る。

このとき、人は無明の中で抗うのだ。

苦しみという産物を伴って…。


なるほど。

執着を手放すべきだ、と実感する。

執着、欲、怒り、煩悩、
お釈迦様の残した数々のキーワードが
次々とストンと落ちてくる。


生きることは願いを叶えていく事、
その根本には“死にたくない”という
願いをがっちりと握りしめながら、

そのために
瞬間瞬間に呼吸をしたい、から始まり
水を飲みたい、お腹を満たしたい、
運動したい、眠りたい、
病気になりたくない健康でいたいと、
死なないために必要な願いを
必死に叶え続けていく。



叶えられている時は生きている時なのだ。


しかしそんなちっぽけな願いも
いつか必ず叶えられない時が来て、

人や生命は死を迎える。


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