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おばあちゃんへの手紙 エピローグ03

大きく目を見開いて私の顔を見返してきた。


なんと
そこに書き記されている文字は、

見飽きるほど見慣れた私の文字だった。


しかも
書いてある内容を読めば、

まさしく
あの夢の後
おばあちゃんへの返事を書き、

仏壇に供えた、
あの手紙そのものだった。



「ありがとう、ありがとう。」と幾度となく
書き連ねられたエピソードたち。

「ごめんね、ごめんね、ごめんなさい。」と
謝り続ける思い。

そして最後に
再度「ありがとう、ありがとう、
本当にありがとう。」で締めくくられた、

あの手紙だった。

改めて読み進めるうちに、

私ではなく、
おばあちゃんの気持ちが
ひしひしと伝わってきた。


私からの
手紙が、便りが
欲しかったのだ。


もしかしたら
簡単な報告でもよかったのかもしれない。


子供が学校から帰り、
「今日こんなことがあったよ」
聞いて聞いてと、
話されることが親にとって、
とても愛しい時間のように。


孫から手紙が欲しかった。


それがおばあちゃんの
最後の願いだったのかもしれない。


そして願いはやっぱりその人を縛りつける。


前へ進むことを拒ませ、
次のステージに上がることを躊躇させる。


ふー、
とひとつ息を吐いて、
ふと周りを見回してみる。

本当に何もなかった。


すべてを手放せた証のように、
がらんとした静寂だけが、
鎮座するのみだった。

「おばあちゃん、見事だよ…。」

私は心からそう思った。


すべてを整理し、手放した。

大切な大切な自分の3つの幸せまでも、
潔く置いていった。


手放すとは、
なんでもかんでも捨て去って忘れること
とは違う。

それは、醜い“怒り”だと仏教では説く。



捨てる必要も忘れる必要もないが、
ただそこに縛りつけた自分の執着を
解き放つということだ。


結果として、その先に
捨てることも忘れることも
出てくるかもしれないが、
そこが重要なのではない。


執着がある限り、
その物事自体を考え続けることになる。


それが次のステップに進めなくさせる。



考えとは、

突き詰めれば
すべて過去のデータの中に埋没することであり、

次々に現れる“今”を
過去で塗りつぶしていくことに他ならない。


終わったことに引っかからないで、
常に次々と現れる新鮮な“今”に集中していくこと。

Let go,Let go,Let go...



まさに愛のような生き方が、
人を次のステップへと昇華させる。


座学的にはよく理解できることだが,
実践はとてつもなく難しい。

良いことがあったら嬉しくて
その事に埋没してしまうし、

嫌なことがあれば早くそれを遠ざけたいと
考えを巡らせ続けてしまう。


特に怒りは、ぐるぐる頭の中を回って離れない。


その間も
新鮮な“今”は過ぎ去り続けているというのに。

それをおばあちゃんは
見事にやってのけ、見せてくれた。
 

この凛として静まり返った空間が
有言に物語ってくる。

そしてもし、私の手紙と供養の旅が
ほんのわずかでもその役に立てたのなら、
この上ない幸せだ。


「パパさん、これっ。」


 愛が突然私の肩を揺すってきて我に返った。

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