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第1章 私のキャリア遍歴(1)−非高校から大学・大学院へ(3)横浜国立大学大学院修士課程へ

1999年4月、横浜国立大学大学院経営学研究科会計・経営システム専攻修士課程に進学しました。

財務会計論の研究室に所属し、簿記論、財務会計論、管理会計論、原価計算、公会計、国民会計など会計学の主要科目の講義(大学院の講義科目は「特論」と呼ばれていました)のほか、国際経営や比較法制度の特論を受講しました。また、国際経済法学研究科の企業会計法の特論も履修しました。

大学院では、講義と言っても、1つの特論当たり5人〜20人程度の少人数で行われましたので、先生が一方通行で解説する授業形式は少なく※、多くが毎回のレポーターを決めて、発表を求めるスタイルで行われました。

※その中でも、「簿記原理特論」は簿記論の大家の先生が、商品売買などを題材に90分間簿記の記帳手続きや簿記一巡の手続きについて、喋り倒す講義でした。通常簿記の授業は、解説→問題演習→解答解説という形式で進められることが大半ですが、大家の教授は板書もほぼなく、ひたすら簿記理論を話し続けておられました。お話しだけの簿記の授業の受講という貴重な経験をさせて頂きました。

発表する内容は、英米のテキストのうち10ページ程度の和訳や内容紹介、および発表を受けてのディスカッションが中心でした。

特論は1科目2単位で24単位以上、研究指導(演習)が8単位以上、合計32単位以上が修了要件でした。演習以外の単位は1年次に取り終え、2年次は修士論文に専念することが通常でしたので、特論24単位=12科目(コマ)を1年で取ることになります。半期6コマですので、週3日登校して、1日当たり2コマ受講するのですが、文系の大学院は院生の数が少ないため、すぐに発表の番が回ってきます。英語の文献を必死に和訳し、何とか授業に間に合わせる綱渡りの日々を送っていました。

それでも、専門英語のため、何となくイメージは掴めます。ビジネス英語はターム(用語)のパターンが大体決まっていますので、ビジネス知識のある人ならば、何となく読み進められてしまいます。

当時特論で読んだ主な文献としては、日本語訳が出る前の国際会計基準(IAS、現在は国際財務報告基準:IFRS)の公開草案やEdwards, J., et al., Economic Analysis of Accounting Profitability, Oxford University Press, 1987、E.O.エドワーズ, P.W.ベル著 ; 伏見多美雄, 藤森三男訳編『意思決定と利潤計算』(日本生産性本部、1964年)などです。

修士課程では上記の他にも、会計学の名著の原典を多く読む機会を得ました。「管理会計特論」の授業で、キャプラン=ノートン著・吉川武男訳『バランス・スコアカード: 戦略経営への変革』(日本生産性本部、1997年)の原典、Kaplan=Norton, The Balanced Scorecard: Translating Strategy into Action, Harvard Business Review Pressに出会えたことは、望外の幸せでした。2022年度に採択された科研費「『観光振興プロジェクトの地域連携パス』の開発と体系化」において、バランスト・スコアカード(BSC)は鍵となるツールとなっています。

話を修士課程の時に戻します。1年次の冬に40度の熱が出たときも、床に入りながら、原書とにらめっこしながら、必死にワープロのキーボードをたたき続けたこともありました。この当時はパソコンの本格的な普及へ向けた歩みが始まったばかりの時期でしたので、私のようにワープロを使う院生が多くいました。

横浜国立大学大学院経営学研究科修士課程は経営学専攻と会計・経営システム専攻を合わせて1学年30人程度でしたので、全員が顔見知りでした。会計・経営システム専攻では、授業開始前に先生にお茶とおしぼりをお出しする慣習もありましたが、院生の誰かが廃止を主張して、2年次からは廃止となったこともありました。一部の先生は「こんないい伝統を無くすのは残念だ」とおっしゃりましたが、廃止は院生の総意でした。

大学生と違って、 大学院では明確な目標や目的意識を持って入学した院生が多いです。より良い就職を求める人、税理士試験の科目免除を希望する人、博士後期課程に進学して研究者を目指す人など様々です。

私が在籍した頃の横浜国立大学大学院経営学研究科修士課程は、横浜国立大学経営学部からの内部進学者よりも、他大学出身者の割合が高かったです。それでも、学習院大学、東京理科大学、横浜市立大学、神奈川大学、神戸商科大学(現、兵庫県立大学)など有名大学出身者が多数を占めていました。

また、当時は経営学研究科は修士課程のみで、博士後期課程は設置されていませんでした。研究者志望の院生は一橋大学大学院や東京大学大学院などの博士後期課程へ進学するしか道はなかったのです。それでも私が在籍した当時は、修士課程を持たない博士課程のみの国際開発研究科があり、私たちも進学は可能でしたが、内部進学者向けの試験はなく、外部者と同じ筆記試験を受ける必要がありました。

そんな状況でしたが、確か1年次の後半に修士課程と博士課程を統合する形で新たな研究科が発足するという話が持ち上がり、私たちが修了する翌年度から博士前期課程と博士後期課程を包括し、経営学研究科修士課程、経済学研究科修士課程、国際経済法学研究科修士課程、そして国際開発研究科博士課程を統合する形で、国際社会科学研究科(現在は、教育組織の国際社会科学府、研究組織の国際社会科学研究院となっています)が新たに発足しました。経営学研究科、経済学研究科、国際経済法学研究科、国際開発研究科は発展的解消となりました。

私は新しくできる国際社会科学研究科企業システム専攻博士課程後期の入試を受けました。この時は横浜国立大学大学院生も一律外部生と同じ条件で入学試験を受けました。実はこの頃、修士論文をめぐって、修士課程の指導教員と折り合いが悪くなり、不合格になってしまいます。

『企業会計上の資産再評価に関する一考察―金融ビッグバン時代の土地再評価の展望―』と題した修士論文を書き上げ、最終審査は何とかパスしました。これは当時不良債権問題で経営が苦境に陥っていた金融機関の財務改善につなげるため、土地の再評価により自己資本増強を図ることを意図して議員立法で作られた政策的会計ルールについて考究したものです。

その後、運良く博士課程後期の二次募集があり、この試験の前に指導教員のご理解を得て、何とか合格しました。

1999年4月1日の入学には間に合わず、入学日は4月半ば頃となりました。

(続く)

著者プロフィールはこちらへ:https://note.com/leoliner/n/nf8605238dfee

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