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薔薇の牧場に舞う者は (2020/01/10) 新春#02

『忍 魂』【2】
 
所長は早速点をひとつ打った。
「世間一般ではこれを、“素点”と言っていますが、『側』ともいいます。
 この点を連続横に連ねて行けば横画になり、この点から縦に連ねれば縦画になる。
 一方、この点から斜め↗↙にはねたものが、“はね”になる、と説明していますが、RUCAでは違う用語でお話しします。
 この素点で示されるところは何か?それは『止揚』です。」
「『止揚』?
今日、その言葉を使われたのは2回目ですね。アウフハーベンのことですか?」
「その通り。
この点の下側:斜め左上→右下のラインは真っ直ぐ、すなわち『直』。
 一方、上側:丸みを帯びた『曲』。これが同時に存在している、則ち『止揚の実現』と考えるのです。
 もちろん、この素点ひとつならどうということもありませんよね。ですが、これならどうでしょう?」
 所長が次に書いたのは『宇カンムリの第一画の点だった。
「これを『亀頭点』と言います。ここから下に縦画を書きます。
 縦画線の輪郭:左側≡①/右側≡②
としましょう。
①:真っ直ぐ=『直』ですが、
②:カーブ有=『曲』になっていますね。
『直』と『曲』を同時に表現→矛盾・対立・相克を乗り越える、則ち『止揚』の実現です。
 一般に、達人・名人はこの『止揚』を易々と実現しています。
 野球で言うと・・・オッと野球はお好きですか?」
「あまり好きではありません。どちらかといえば、サッカーの方が好きです。が、でも解ります。」
「ありがとう。では続けます。
 野球でホームランを打つ場合、
(A)ボールを真芯で捉え、(B)バットを最大限に速くスイングさせねばなりません。ところが(A)と(B)は両立し難いのです。
(A)→バットはゆっくり振った方が容易い。
が、ボールを遠くまで飛ばすなら、
(B)→バットを最大限に速く振らなければならない。
 (A)(B)は互いに矛盾・対立・相克関係ですが、三冠王を獲得するような選手はこれを同時に行う。則ち『止揚』を実践している、といえます。
「技」とは、この『止揚』を実現することであり、レッスン場とは、そのノウハウを指導する場である、と言って良いでしょう。」
「なるほど。確かに仰る通りですね。」
「と言うわけで・・・」
所長は、
(1)亀頭点
(2)亀頭点→縦画
(3)亀頭点→縦画→(左↗左上)の緩やかなカーブを描くはね
3種類を書き分けた。
「書の用語で言いますと、
(2)≡『努』(ド)
(3)≡『趯』(テキ) と言っています。
この三つを各々続けて書いてみてください。
ここから後の展開は、方筆理論で一気に説明がつきます。先ずは筆を動かしてみましょう。」
「はい、やってみます。」
 彼は書き始める。

(22:35)
「遅くまでお疲れ様です!」
 突然、声がした。
 開いたドアのところから、制服・制帽姿の中高年男性がニコニコ笑っている。
 咄嗟に立ち上がり、ドアまで出ていった所長に、
「体験レッスンの方ですか?」
「そうです。この時間帯でないとご都合がつかない、というお話しでしたので。」
「所長の教室はコンビニ方式でたいへんですね~」
「いえいえウチは教授が生徒さんの都合に合わせるのがモットーですから。」
「別に何も起きないとは思いますが、帰られる時に火の元と戸締まりだけはお忘れなく。」
「承知しました。ご苦労さまです。」
 笑いながら所長は手を上げ、巡回警備員も笑いながら歩み去った。「コツ、コツ」という靴音を立てて去っていく。
 この間、ドアは一時的に所長の身体で塞がる体になっていた。
 所長は振り返って机に戻り、レッスン者の前まで戻った。
 彼は悪戦苦闘している。
 いや悪戦苦闘している筈だった。
 だが、彼が書いたものを眼にしたとたん所長の顔から笑みが消えた。
 嘘だ!書の経験がないなんて嘘だ!!絶対嘘だ!!!
 警備員のたてる、「コツ、コツ」という音はもう聞こえない。
 警備員は最初にドアから覗いた際にしか体験レッスン者の姿を見ていない。所長はドアを正面に見る位置に座り、レッスン者はそれに対面する形で机に向かっていた。警備員はレッスン者の顔を見ることはできない。ほんの一瞬背中と服装を見たのみである。
 コイツ!一体何者だ?
 展覧会場での『目玉』発言といい、この書きっぷりといい、やはり只者ではない。
「しまった!」と所長は内心臍を噛んだ。警備が声がけをした際、俺は自分から席を立って彼の視界を遮ってしまった!席についたままで受け答えをするべきだったのだ。
 他のテナントは既に営業を終了し、関係者は一人もいない。その静けさがビル内を支配している。闇夜の明かりの消えたビルの中、伽藍洞内に、所長と体験レッスン者が正対するRUCAの教室だけが浮かんでいた。

 ※以下、『忍 魂』【3】に続く・・・


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