見出し画像

世界を殺す詩人の、お墓参り

 (この文章は2019年に書いたものです)

 12月24日の午前11時40分、今年最後の授業が終わった。
 火曜日はいつもすぐに別の大学に移動して、さらに二つ授業があるのだが、この日はそれがない。
 寒いけれど、とても良い天気。澄み渡る青空。

 詩人のお墓参りに行こう、と思った。

☆☆☆

「詩人のお墓参り」という概念は、恩師の古賀登先生(1926~2014)から与えられた。古賀先生は20代の頃、大学院で中国中世史を学んでいた時の指導教官だ。
 若い時にはとても厳しかったそうだが、私の指導をして下さった時には既に60代。午前のゼミが終わってランチにビールを一杯、午後のゼミはほろ酔い加減で、なんていうこともあった。
 それでいて指導の手が緩むことは一度としてなく、私は史料批判の仕方から文章の書き方まで、先生から徹底的に叩きこまれた。もし古賀先生のご指導がなければ、今こうして文章を書くことはできなかっただろう。アラビア語には、「私に文字を教えてくれた人がいたならば、私はその人の奴隷となる من علمني حرفا صرت له عبدا」という言葉があるが、私にとって、それはまさに古賀先生のことに他ならない。

 豪放磊落で、ときおり意表をつかれる話が飛び出してくるのも古賀先生の思い出だ。

 シルクロードとか、内陸アジアとか…ああいう周囲に何もない沙漠とか、荒漠とした風景の中でトラックを走らせる運転手がいるだろう。そうすると彼らは、あまりの大自然の中で自分がつぶされそうになってしまうから、何とか自分を守ろうとして、トラックを飾るんだ。だからトラックに絵を描いて、電飾をつけるんだ。
 なるほど…たしかに、あそこらへんの大型トラックって派手なイメージがありますね…あれ?ちょっと待って下さい。東京にも派手なトラック走っていますよ。わたしこの前、街中で見かけました。
 うーむ、そこはほれ、「東京砂漠」という歌があるだろう。
 なーんだ。シャレですか。

 といった他愛もない会話をしたのを覚えている。こんな風な、嘘なんだか本当なんだかわからない、夢と現実が混ざったような話がたまにあった。その中で最も印象的だったのが、ある時先生が、ふと言ったこんな言葉だった。

 イスラーム教徒の人が海外から日本に来るだろう?彼らはモスクで祈る。だけど日本で、もしモスクが近所に見つからなければ、彼らは詩人のお墓に行って、そこで祈りを捧げるんだそうだ。

 詩人のお墓は、ひとつの寺院。
 それはとりもなおさず、現世を生きる人々のうちで、詩人こそが最も誠実に自らの心と、神と向き合うということを意味している。このイメージは、当時の私の胸に深い感動をもたらした。

 もちろん、私はその後30代半ばから、別の大学院でアラビア語やイスラームについて学んだので、その経験をもつ今となっては、さすがにこの話は一般論ではないだろう、という気がしている。まだ日本にモスクも少なかった頃の、あるムスリムの話が先生を通して語られたのではないだろうか、と。

 ただ、2015年にイランのシーラーズを訪れた時のこと。13世紀の大詩人サアディーの墓廟に、大勢の人々が集まっており、中には棺に身を寄せて一心に祈りを捧げている人々もいて、「詩人のお墓=祈る場所」というのはこういうことか、とも思った。それ以来、私は旅先で、あるいは心清らかに自らに向き合いたい時、尊敬する詩人のお墓参りに行くようになった。
 そしてこの習性を与えてくれた古賀先生には、本当に感謝している。先生の言葉は、人生で受け取った数々の教えの中でも最も美しいものの一つ。きっと死ぬまで胸に残り続けるのだろうな、と思う。

☆☆☆

 ということで詩人のお墓参りで、この日は、それは石原吉郎(1915~1977)以外にはあり得ないのであった。
 
 はじめて石原吉郎の言葉に触れたのは「ペシミストの勇気について」という文章だった。ウェブ上に全文が掲載されていたのを読んだ。私はもう、スクロールするマウスがうまく扱えないほどの衝撃を受けた。

 石原吉郎が、戦後抑留されていたハバロフスクの収容所の中で見た、友人「鹿野武一」の生き様を綴った文章である。この文章を要約したり、エッセンスを抽出したりすることは、私にはできない。ただ、極限状態において、ともすれば人は目先の希望にすがってオプティミストになりがちなところ、たった一人、徹底的にペシミストであることを引き受け、それによって加害者であることからも被害者であることからも(そのどちらも「集団」である)、自らを隔絶した人物がいた、ということに、どうしようもなく打ちのめされた。それは、それまでの自分には全く思いもつかない峻厳な生き方であり、その瞬間に私の人生そのものが一刀両断にされてしまったと言ってもよい。

 「私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに<告発>の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。強制収容所とは、そのような沈黙を圧倒的に人間に強いる場所である。そして彼は、一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ちつづけることによって、さいごに一つ残された<空席>を告発したのだと私は考える。告発が告発であることの不毛性から究極的に脱出するのは、ただこの<空席>の告発にかかっている」石原吉郎「ペシミストの勇気について」『石原吉郎詩文集』(講談社文芸文庫、2005年、p.112)

 この「ペシミストの勇気について」を読んでしまったら、後はもう、飢えた人間がパンをむさぼるように、石原吉郎の詩文を手当たり次第食いちぎり、飲み下し、自分の中に入れていくしかなかった。好きな詩人はたくさんいる。そして聞かれればそのひとりとして石原吉郎の名を挙げるだろう。しかし石原吉郎に限ってその「好き」というのは他の詩人とは全然違う。その作品を愛する、というより、その作品が私自身の魂の角度そのものになっている、としか言いようがない。

☆☆☆

 石原吉郎の詩は星空に似ている。星としての言葉は輝いている。しかしそれを成り立たせているのはその言葉を位置させる空(くう)、何もない空間、つまり沈黙の方だ。星と空は、もとは同じものだったのが、運命の途上、片方は凝縮されて星となり、もう片方は奪われ、そぎ落とされて空となった、と、そんなことをイメージさせる。「居直りりんご」という詩は、りんごの周りの空気をどこまでも純化していき、すべての粒子をりんごに凝縮させ、りんごの形を現出させたかのような峻烈さに満ちている。こんな詩を書かれてしまって、後の詩人はいったいどんなりんごの詩を書けるというんだろう、と思うほどの峻烈さだ。

居直りりんご   石原吉郎

ひとつだけあとへ
とりのこされ
りんごは ちいさく
居直ってみた
りんごが一個で
居直っても
どうなるものかと
かんがえたが
それほどりんごは
気がよわくて
それほどこころ細かったから
やっぱり居直ることにして
あたりをぐるっと
見まわしてから
たたみのへりまで
ころげて行って
これでもかとちいさく
居直ってやった

『石原吉郎詩文集』p.62~63

 ロシアの詩人ダニイル・ハルムス(1905~1942)は、詩は窓に投げつけたら窓ガラスが粉々に割れるように書かねばならないと言っているが、もし詩の価値を「硬度」ではかるならば、石原吉郎の詩はまさにダイアモンド級、投げつけたら有形無形のあらゆるものが木っ端みじんになることは間違いない。

☆☆☆

 で、お墓参りの話である。

 年内最後の授業があった大学は、実は石原吉郎と私の母校でもあり、かつ石原吉郎のお墓にとても近いのであった。
 もう14年ほどこの大学に関わっているのに、一度もお墓参りに来たことがなかったのも不思議だな、そんなことを考えつつ、駅を通り越して、多磨霊園の方へと歩いて行った。
 初めて来たのだが、想像以上に広い。墓苑の中にパス通りがあって、停留所がいくつもあるのに驚いた。
 平日の昼間だからか、ほとんど人は見かけない。尋ねることもできず、途中何回か掲示板で方向を確認しながら、霊園中央の「11区1種16側17番」を目指して歩いた。冷たい風の中を、広大な霊園をただ一人歩む、この孤独が心地よい。
 少し迷って、ようやくたどり着いた石原吉郎のお墓は、石原家のお墓ではなく「信濃町教会員墓」であり、既に二組ほど、新しい花が供えてあった。墓石の左側の墓誌に、多くの信徒の名に並んで薄い字で石原吉郎の名が掘ってあるのを見つけて、ああ、ここだ…と思った瞬間、3人の女性たちが掃除道具を持ってやって来た。このお墓に眠っておられるご夫婦の、ご家族らしかった。邪魔してはいけない、と私はいったん身を引き、少し離れた場所から、彼女たちが丁寧に新しい花を供え、枯れ葉を掃除し、墓石に水をかけて祈りを捧げるのを眺めていた。亡くなられた方へのこの上ない思慕と愛情がこもるしぐさだった。

 それにしても、何という偶然だろう。何しろ園内にはほとんど人がいないのだ。それを、同じ時間にお墓参りに来る人がいるとは、全く想像もしていなかった。しかしそのおかげで、期せずして私は、かなり長い時間、お墓にいることになったのである。
 彼女たちが去った後、あらためて墓石の前に立ってみた。
 何かを祈ろうとか、願おうとか、そういう気には全くならなかった。何一つ、何の言葉も浮かんでこなかった。私はただ墓石を眺め、墓誌を眺め、花を眺め、先ほどの女性たちが火をつけてほんの少しお墓に供えていた煙草の残り香をかぎ、風の音と、舞い落ちる枯れ葉の音を聞いていた。
 詩人の沈黙と静寂が、私の内にある沈黙と静寂に、そっと手を伸ばし、つながっていくのが感じられた。

☆☆☆

 そんなこんなで、一時間もいたのだろうか。風がいっそう冷たくなったのに気づいて、帰ることにした。その時になって知ったのだが、実はお墓は京王バスの「霊園中央二十号地」バス停の真ん前だったのだ。ということで、帰りはそのバスに乗ることにした。
 ほどよく乗客を乗せたバスは霊園を出て、街に入る。当たり前だが、霊園の周囲とあって街はどこもかしこも石材店で一杯だ。ああ、ここは石の街、石の原なのだな、と思った。自分の名字そのものの街に眠っているなんて、どこまでも言葉にこだわる詩人らしいな、とも感じて、何だかおかしかった。

詩人    金子冬実

石原吉郎が
りんごが居直ると
言った以上
もはやりんごは
居直れない
居直ったところで
無駄である
誰も 一瞥も
くれやしない
これからのりんごは
居直る以外のことを
するしかない
居住まいを正してみたり
もったいをつけてみたり
あるいは時々 おどけてみたり
そうして一つ 詩が書かれ
りんごはまた一つ 明日を失う
詩人はこうして
世界を少しずつ 殺してゆくのだ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?