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バロックから印象派まで。務川シェフのフレンチ・フルコース<務川慧悟:クローズドコンサート>


2023年8月28日、29日の両日、東京「渋谷美竹サロン」にて務川慧悟さんのクローズドコンサートが行われました。2日ともプログラムはアンコールまで同一だったので、今回は両日をまとめて1本の感想記事にしてみました。既に前半の務川さんによるフランス古典派作品についての講義内容を記事にしていますが、今回はいつもながら素人がすみません(汗)の感想と、後半プログラムについて。よろしければ両方お読みいただけると嬉しいです。


美竹サロン
パンフレット


☆プログラム

※フォーレはノクターン第9番 ロ短調 Op.97に訂正


特筆すべきなのはなんといっても前半のプログラム。当日配布された冊子には、今公演への務川さんの思いが綴られている。

滅多に弾かれないであろうフランス古典派の作品たちを、僕なりの解説を交えながらお届けしたいと思います。

8/28務川慧悟(美竹サロン)パンフレット

この言葉通り務川さんは、聴く機会の少ないフランス古典派の曲解説とその背景について講義を交えながら、素晴らしい演奏を聴かせてくれた。よろしければ、そちらの記事もご参照ください。尚、曲名と作曲家表記は、当日配布されたパンフレットの表記に依っています。


☆貴重な務川慧悟さんの前半の講義内容の記事はこちら


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照明を落としたサロン。目の前に置かれた、艶やかなマホガニーのスタインウェイには、この日のコンサートを楽しみに集まった人々の熱い視線が集中している。皆、この特別な空間を統べるただ一人の音楽家、若きピアニストの登場を息を吞みながら待っている。
拍手とともに務川さんが現れた。グレーのスーツにワインレッド系のシャツ。初日の胸元にはシルバーのポケットチーフ、二日目はルビー色のひし形のラペルペンが輝いていた。ちなみに前半4曲ではコピー譜が用意されていた。
一礼の後、まず一曲。


クロード ・バルバトストル:ロマンス ハ長調

バルバトストルは1724年生まれのフランスの作曲家であり、オルガニストかつハープシコード奏者。「王室礼拝堂やノートル・ダム大聖堂オルガニスト、マリー・アントワネットのクラヴサン教師」(音楽之友社『新編 音楽中辞典』p.531 )。優しく癒されるような曲に、サロンで演奏され貴婦人達の心を癒したのだろうか、と妄想が膨らむ。今でもオルガンの演奏会などでよく演奏されているらしい。個人的にはとても好きになった曲で、翌日も耳に残っていた。


ルイ・アダム:鍵盤ソナタ ハ長調より第1楽章

1758年生まれのアダムはWikipediaによると<パリ音楽院のピアノ科教授を40年以上にわたって務め、門下からは多くの著名な学生が輩出した>。バレエ組曲「ジゼル」の作曲者であるアドルフ・アダンの父。
この曲は務川さんの先生もご存知なく、音源探しにも苦労するほど演奏機会のない曲だとか。丁寧に音を紡いだ務川さんの演奏を、音型の繋がりや後半部分の転調などを味わいながら聴いた。

ヤサント・ジャダン:ピアノソナタOp.5-2 ニ長調

1776年生まれのジャダンは天才フォルテピアノ奏者であり、パリ音楽院でも教えていた。24歳で早逝したが、多くの作品が今も伝わっている。
務川さんは、ベートーヴェンの第1番ソナタと比較しつつ、ジャダン の凝った和声や音作りを<偽終止>の例を挙げて説明し演奏した。「当時のフランスの美学が感じられる興味深い作品」。フランス音楽で、よく「エスプリ」などと表現してしまう、何ともお洒落な感じがこの曲にも。「粋ですね」という務川さん。そうか粋かあ。もちろんフランス美学が分かった訳ではないが、まあ、あれだ。そういう雰囲気ですよね。


エレーヌ・ド・モンジュルー ピアノソナタOp.5-3 嬰へ短調

1764年生まれの女性作曲家モンジュルーは務川さん曰く「彼女はピアニストでヴィルトゥオーサで、パリ音楽院で教鞭もとっていました。高給取り」だそう。その作品は今でもよくフォルテピアノ の演奏などで取り上げられるというお話だった。

私の印象なのだが、務川さんがそれまでで一番の気合スイッチが入った気がした。ルバートやリタルダンドが多く、表情がドラマティックに変化する第1楽章。第2楽章に入る前に務川さんは少し時間をかけて、気持ちを作り直す。奏でられた曲はとてもシンプル、しかし美しい。余計なものを削ぎ落とし、てらうもののない、ただ静かに積み上げた音の重なりがストレートに心に染み入る。打って変わっての第3楽章はなかなか激しい曲調。務川さんの同音連打を間近で見る幸せよ。音のずらしや不協和音が複雑な模様を見せる。アクロバティックにクロスする右手も、ダイナミックな曲の雰囲気を高めて行く。圧倒的な迫力の中にのぞくニュアンス。これぞ粋ってやつですね。


ここで前半終了。務川さんの熱心な講義で、2日とも押し気味。務川さんの「フランス古典派を伝えたい!」という思いが強く伝わってくる、なんとも貴重な時間でした。

楽譜を置いての演奏


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ショパン 舟歌 嬰ヘ長調Op.60

後半はちょっと時間が経ったので、さらにアヤフヤな私の脳。ということで、メモを基に軽く感想を書いてみる。

務川さんのお話:
「パリで活躍していた、ポーランド人のショパン。彼によって新たな奏法が色々と生まれました。例えば手首の使い方などもそうです。<エチュード>は、新しい技法を習得するためのものでした」

やはり音が違う。ショパンが始まって最初に感じたのが、まず音の響きというか大きさだろうか。ホールとは違いサロンで聴くと、その音量の大きさに衝撃を受けた。これは奏法の違いというよりも、曲のダイナミクスの違いかもしれない。前半のプログラムと比較しても、自分のポンコツぶりを晒すようであれだが、あまり奏法の変化は感じられなかった。以前務川さんはフォルテピアノの演奏についてこのように語っている。

ピアノとフォルテピアノは全く別の楽器だと思っています。人前で弾くようになるためには、フォルテピアノ特有の技術の習得も必要で、それを極めてしまうとピアノの奏法に変な影響が出てくることもあるからです。

ピアニストになりたいピアニスト、務川慧悟の本音/ららら♪クラブhttps://lalalaclub.com/2021/03/02/int_attention009/

あれから環境や条件、もしかしたら考えも変わったかもしれないが、それほどにフォルテピアノとモダンピアノでは奏法の違いがあるのだろうということは想像できる。前半曲はオルガンやクラヴサン、フォルテピアノを想定して書かれた曲が並んでいるが、今回はモダンピアノで演奏するので、モダンピアノに応じた演奏をされたのだろうか。
7月21日紀尾井ホールで行われた「日本製鉄音楽賞受賞記念コンサート」での「舟歌」を思い起こす。あの時務川さんは1843年製プレイエルでの演奏だったが、私には初めて聴く世界観だったように思え、非常に衝撃的だった。その時と奏法が異なるかどうかは、私ごとき者では分からない。しかしほんの1ヶ月前のその記憶が残る中、今度はサロンでの濃密な「舟歌」を聴くことができたのは幸せだった。

☆その時の演奏はYouTubeで試聴できます。
ショパン「舟歌」(※頭出し済)


サン=サーンス アレグロ・アパッショナートOp.70 嬰ハ短調

務川さんが「ヴィルトゥオーソ的作風の曲」と仰るこの曲。冒頭から圧倒的な迫力で惹きつけ、駆け上がるキラキラスケール、そして大胆に展開するピアニズムが本当に素敵。何度お聴きしても好きな曲だ。

フォーレ ノクターン第9番 ロ短調 Op.97

務川さん:
「フォーレは、サン=サーンスの弟子であり生涯近しい友人でした。彼の作品は技巧的というより地味なものが多いのですが、フランス和声の発展に大きく寄与しました。彼はとても長生きをしたのですが、晩年は難聴を患いました。そのために和声がとても複雑で独特です。彼の音楽からは諦め、諦観が感じられる。僕は好きな作品が多い作曲家です」


難聴からくる独特な和声というお話の後に演奏を聴くと、まるでフォーレの内なる苦悩、抜け出せない暗闇の中に入り込んだような気がした。完全には聞こえない音への「諦観」にくるまりながら、あちらこちらから響いてくる得体の知れない、不可思議な和声に耳をすます。重なる音、音、音。
この曲も務川さんが演奏会ピースとしてよく取り上げてきたので、何度かお聴きした事がある曲だ。最近他の方の演奏を映像で聴いたが、そこで改めて思い知った。ああ、私は務川さんの描くフォーレの世界が好きだったのだなと。やるせなさ、諦め、それらを包み込んでふわっと着地させる。そこには諦観の先の許容、光明が感じられる。それが務川慧悟のフォーレだと思う。

ところで事前に発表され、当日のパンフレットにも「フォーレ:ノクターン第7番嬰ハ短調Op.74」と記載されていたが、これは間違いだったようだ。いやあ、第7番ならお初だし、と予習したが、もっと長いし混とんの世界。いつか務川さんの演奏でお聴きできればと思う。


ラヴェル:夜のガスパール

務川さん:
「ラヴェルはフォーレから教えを受けました。ラヴェルは前衛的すぎて学校をクビになったが、フォーレの取りなしのおかげで聴講生として何とか受け入れてもらったようです。感謝したラヴェルは、<水の戯れ>をフォーレに献呈しています。<水の戯れ>で、ラヴェルはドビュッシーに先んじてピアノにおける印象派技法を確立しました。そして印象派技法の最高傑作と言えるのがこの<夜のガスパール>です」


この曲も何度か務川さんの演奏でお聴きしたことがある。そして今回も本当に素晴らしい演奏だった。オンディーヌの有機的な動き。今回は手の動きを見る事ができたので、メモしとく。後半の方のゆっくりとしたグリッサンド部分は、まず白鍵を左指で撫でてきて、途中で右指にチェンジ。次に黒鍵のグリッサンドでは左手の裏側から右の裏側にチェンジ。

絞首台では、1音目のポジションでキーを無音で押し込み戻してから、演奏開始していたような? 共鳴音や倍音を響かせ、遠くの鐘を思わせる効果を生むのかな、などと勝手に思ったのだが、どうでしょうか。いや、不確かなら書くなよって話だが(汗)。務川さんの絞首台は本当にエモいというかグッとくる。無機質に、しかし慎重に打鍵される鐘の音と、ある時は虚空に放り出されるように、ある時は粛々と仕事をこなす執行人のように繰り出される和声。ガスパール3曲の中で、ずっと残滓のように脳内で響き続けるのは、実は絞首台だ。もう数日経った今でも、務川さんの奏でる絞首台が丁寧に思い起こされてくる。

そして破壊的としか言いようのないスカルボ。この凶暴さは何なのだろうか。務川さんは弱音の美しさももちろんだが、強音の力強さと迫力も相当魅力的だ。務川さんの歯切れが良く、説得力ある打鍵を聴くと「ああやっぱり推しだわー」と心躍る。しかし改めてサロンの近距離で体感し、この曲のスケールの大きさを思い知った。いわば四畳半で150インチスクリーンの映画を見たようなものである。いやあ贅沢なド迫力だった。

演奏を終えた務川さんの顔には汗が光っていた。聴衆は大興奮の大拍手。それに応え挨拶してから、務川さんは一旦後ろへ退場して行った。そして再登場した務川さんはマイクを握る。
アンコール……。前半の贅沢な講義で、時間は随分押しているのだが。
「ちょっと長いんですが、ラモーの<ガヴォットと6つのドゥーブル>を演奏します」
何というサービス精神。さらに珠玉のフレンチバロックの真髄を弾いてくださるとは。最初から最後まで、フランス尽くしのフルコースを味わう事ができ、まさに至福のひとときだった。

アンコールを弾き終え、挨拶する務川さん


務川慧悟さん、ありがとうございました。




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