シュペルヴィエルにおける詩人の死と海の表象

 ジュール・シュペルヴィエル(1884-1960)の作品を概観したとき、海は重要なモチーフであり続けるのみに留まらず、作品の中でポエジーが何らかの変化や効果を生ぜしめる場、或いは、そうしたポエジーそのものとも重ねられる生成する運動体として、各場合に様々な意味を与えられている。同様に、不眠や心臓病を背景に持つ詩人の身体と、その終焉である死も、モチーフとして、ポエジーの場として、或いはポエジーそのものとして、決定的に重要な役割をたえず担っている。ここでは詩人中期の詩集『世界の寓話』(1938)の中から二篇の詩を取り上げ、海の表象が詩人の死とどのように結び付いているのかを考察する。なお、本論で引用する詩は全てJules Supervielle, Œuvres poétiques complètes, 1996, Gallimardによる。
 初めに引用するのは、無題の詩(わたしはひとりきりで……)である。

 Je suis seul sur l’océan
 Et je monte à une échelle
 Toute droite sur les flots,
 Me passant parfois les mains
 Sur l’inquiète figure
 Pour m’assurer que c’est moi
 Qui monte, c’est toujours moi.
 Des échelons tout nouveaux
 Me mettant plus près du ciel,
 Autant que faire se peut
 S’il ne s’agit que d’un homme.
 Ah ! je commence à sentir
 Une très grande fatigue,
 Moi qui ne peux pas renaître
 Sur l’échelle renaissante.
 Tomberai-je avec ces mains
 Qui me servent à comprendre
 Encore plus qu’à saisir ?
 Je tombe ah ! je suis tombé
 Je deviens de l’eau qui bouge
 Puis de l’eau qui a bougé,
 Ne cherchez plus le poète
 Ni même le naufragé.

 わたしはひとりきりで 海上で
 一本の梯子を登っていく
 それは波打つ水面にまっすぐ立っている、
 時折 わたしは顔に手をあてる
 不安のさいなむ面差しに
 これはわたしだと 確かめるため
 登っているのは、いつでもわたしだと。
 全くあたらしい足場たちが
 わたしをもっと どんどん空へ近付けていく、
 かのうであればどこまででも
 それが一人の人間の問題であるかぎりは。
 ああ! わたしは感じはじめる
 どうしようもないくらい大きな疲労を、
 生まれ変わってゆく梯子のうえで
 生まれ変わることのできない このわたし。
 わたしは一緒に落ちるのだろうか
 ものを掴むより ずっと
 含め込むために使ってきた この両手と?
 わたしは落ちる ああ! 落ちた
 わたしは動く水になった
 次いで 動いた水に、だから
 もう 詩人を探すな
 破綻者すらも尋ねるな。

 さて、この詩ではまず孤独な詩人の姿と茫漠たる海が一挙に描かれ、その後「波打つ水面」とその上に「まっすぐ立っている」梯子が対置させられることで、詩人はその梯子を登る最中の時間性として中空に位置付けられる。一行目ではただ海に包み込まれていた詩人が、二行目と三行目ではそれから遊離し、状況としての孤独から、行為としての孤独へと移行している。それは垂直な梯子を登っていく行為であるから、この遊離は半永久的に進み、後戻りが出来ないという性質を持っている。また、梯子を舐める波の激しさも詩人を追い立てることに一役買っているようである。しかし、一行目で得られたひたすらに広大な海というイメージは未だ消え去ってはいない。海は依然として詩人=梯子を包んでおり、このことと垂直方向の遊離とは同時に行われるのである。
 その中で、詩人は「時折」、自らの顔に手を当てて、自分がまさに自分であることを確かめようとする。「時折」という指示が詩人の運動の合間に入り込んでいることからも分かるように、この動作は詩人が梯子を登り続けるために必要なものなのである。もしこの動作がなされなければ、詩人は「これはわたしだと」認識することが出来ず、もはや海上の孤独な主体ではいられなくなり、海の中に溶けてしまうだろう。従って、この詩において海は、詩人が主体性を喪失する場、即ち死という逢着として描かれていることが分かる。ただしこの死は、既に確認したように、詩人の行為=生=詩作そのものを、常に変わらず包み込んでもいるのであり、更に、表面に感じられる波として、詩人を行為へと駆り立て続けてもいるのであるから、単なる生の対立項ではなく、むしろ多義的な現れである。
 一方で生はというと、「全くあたらしい足場たち」が、「かのうであればどこまででも」詩人を空に近付けていく時間として表象されている。ここで持ち出される「空」は、「空」である以外に何の情報も含んではおらず、またいつか到達することの出来る場所でもない。実体はなく、全くの空無であり、それでも日々の「足場」はいつも瑞々しく詩人をそこへ近付けていくのである。この空は、ボードレールの言う「未知」なのではない。それについて、また、その中で知られるべき情報はどこまで進んでも一つとしてなく、詩人が詩作において何かを得るのは、「ものを掴むより ずっと/含め込むためにつかってきた この両手」を用いてのことである。「掴む」という語はシュペルヴィエルにおいて特権的な位置を占めている。佐藤園子が指摘するように、その運動は「事物の本質をつかみとり、それを言葉にすること」(注1)でもあり、存在を内的な仕方で認識する契機である。ここでは敢えて事物との表面的な接触を指示する用い方がなされているが、やはりそれは事物の内容を「(それより)ずっと 含め込む」ための契機なのであって、詩人に詩作を可能ならしめるものはこうして得られた事物の内的な在り方に関する情報である。こうした一連の事物との関わり合いが詩人を上に登らせることは論を俟たない。詩作のための「両手」は、まさに梯子を掴む手段だからである。よって、生の行為もまた多義的であって、情報的に無である「空」へとひたすらに日々が詩人を導くという相と、詩人が詩作において「両手」を用いて自ら梯子を登るという相とが重なっているのである。こうした構造があるために、詩人は手を顔に当て、自分が主体であるか、そうではないのか、ということを、時折確かめてみざるを得ないのである。
 以上において詩中の死と生の多義性について考察したが、そうして確認されたことは、両者は対立する二項なのではなく、むしろ死が生を常に覆っているということである。生の行為は「空」へと向かうが、そこに新たな領域がある訳ではない。生は初めから死に見張られており、詩作はその気配の中で行われ、最後にはやはりそれに呑み込まれるのである。詩人は「落ちる」ことについて思いを巡らせているある瞬間にそこに落ち、水を動かし、やがてその名残も失われて、遂に海の全体性の内へと消え去るのだが、ここで注意しなくてはならないのは、波の所在である。梯子を登っていたとき、波は確かに梯子の下部で激しく活動していた。今や、そこにあるものは「動いた水」に過ぎず、全ては静寂に絆されている。このことから、波は詩人の生と独特な照応関係を持っていたことが明らかになる。詩人の生が存在しない今、波も、梯子も、「空」ももはやなく、全て静寂の暗い海に回収されるのである。それは詩人の詩作、即ち事物の存在をその内に「含め込む」行為こそが、その実世界を現出させていた当のものなのであり、詩人の死はシュペルヴィエルにおいて世界の死を意味するからである(注2)。一行目で描かれた海と孤独な詩人の風景はここで転調されつつ反復されている。詩人は再び海の中へと帰るが、するともはや詩人はどこにもいないのである。
 さて、次に引用するのは「身体の忘却のなかで」という詩である。

 Dans l’oubli de mon corps
 Et de tout ce qu’il touche
 Je me souviens de vous,
 Dans l’effort d’un palmier
 Près de mers étrangères
 Malgré tant de distances
 Voici que je découvre
 Tout ce qui faisait vous.
 Et puis je vous oublie
 Le plus fort que je peux
 Je vous montre comment
 Faire en moi pour mourir.
 Et je ferme les yeux
 Pour vous voir revenir
 Du plus loin de moi-même
 Où vous avez failli
 Solitaire, périr.

 わたしの身体が忘れ去り
 身体の触れた全てが忘れ去っても
 わたしはあなたを覚えている、
 一本のヤシの木がどこかの
 知らない海たちの畔で踏ん張っている
 こんなに離れているのに
 わたしはあなたを見つけ出す
 あなたであったものの全てを。
 それからわたしはあなたを忘れる
 わたしに可能な限りもっとも強く
 あなたに見せてあげるのだ
 わたしのなかで死ぬ方法を。
 そうだわたしは目を閉じる
 あなたが帰って来るのを見るために
 わたしの一番遠くにあるところから
 あなたがあやうく
 ひとりきりで、世を去りかけた場所から。

 この詩で中心的な問題になっているのは「あなた」の死であるが、とはいえ、その出来事が位置している確固たる場所を見つけ出すことは出来ない。もう一つ重要な主題となっているのが忘却である。一行目では「わたし」の身体の忘却、二行目ではその身体が触れたあらゆるものの忘却が語られる。つまり、時間経過の中で身体も世界も否応なく流動し、物事をそのままの形で留めておくことは出来ないのであるが、それにもかかわらず、「わたしはあなたを覚えている」と詩の主体は語る。この主体を敢えて詩人と同一視する決定的な根拠はないが、ここでは前出の作品との比較のため、「詩の語り手」=詩作主体=詩人という風に措定する立場を取る。そう捉えたとき、世界は流動の最中にあり、「わたし」の身体もあらゆるものを忘却していくのに、「あなた」を覚えていられるのは、詩人が「あなた」の本質を内的な仕方で自分の内に「含め込」んでいたからに他ならない。
 四行目では唐突にヤシの木が登場し、八行目にかけて、ヤシの木が「知らない海たちの畔で踏ん張っている」様子と詩人が「あなた」を「見つけ出す」ということが重ねて描かれている。「海たち」というように、様々なモチーフを複数形で登場させることはシュペルヴィエルの特徴的な方法である。ここでこの方法は、「知らない étranger」という語の選択とも響き合い、「海」の外界性や複雑性を強調する効果を持っていると考えられる。加えて、シュペルヴィエルが身体の内部を度々海のイメージで表象して来たことを鑑みれば、身体と世界の双方を「海」に喩える意味合いも含まれているだろう。身体にも世界にも属しておらず、複雑な外界の情報に取り囲まれ圧迫されながら、一本で「踏ん張っている」ヤシの木のイメージの中に、詩人は「あなたであったものの全て」を見つけ出す。この表現には、まず、詩人が「あなた」を表面的な姿でなく、その本質のレヴェルで捉えていたことが読み取れる。そうした本質的な「あなた」の在り方が木のイメージに託されているのだが、この木は詩人の身体の内部には属していないのであるから、事態はやや複雑である。詩人は一度自らの中に「含め込」んだ「あなた」の在り方を、ここではその外側に置いているのである。何故なら、身体は既に「あなた」と過ごした時間にまつわる事柄を忘却し始めて――或いはし終えて――おり、そこから「あなた」を引き離さねばならなかったからである。
 続く九行目・十行目に視線を移すと、「それからわたしはあなたを忘れる/わたしに可能な限りもっとも強く」となっており、どうやらここで、「あなた」の死という問題が、「わたし」の死へと転換されているようである。「わたしのなかで死ぬ方法」というのがそれであり、忘却の流れや領域から引き離された「あなた」は「わたし」の死によってしか消え去ることがないと分かる。「わたし」=詩人の死がそのままあらゆるものの消滅を意味するのは、先にみた作品と共通している。しかし、先の作品では詩人の死は海に呑み込まれることであったが、今度の作品の場合、海は詩人の内部にも外部にも存在しており、また、そのどちらにも属さないヤシの木が、詩人の内部にあったものの精髄を留めておける場所として導入されている。このことは先の作品で梯子が海の上に立っていたことと対照的である。梯子は即ち生のモチーフであったから、それが海の上に立っていることは、生が死に包まれていることを示していたのであった。ここではヤシの木は生の時間性=忘却の外部に位置しているから、この木はあたかも生の支配も死による支配も免れて永遠の領域に根を下ろしているかのようである。
 しかし、この木がいつまでもそうして立っていられるという保証はどこにもない。既にみたように、この木は「知らない海たち」に脅かされながらそうして「踏ん張っている」のであり、つまるところ、それは詩人が忘却の作用から必死に逃れようとして生み出した希望のイメージなのである。従って、ポエジーの領域では「あなた」の精髄はヤシの木にあるけれども、実際にはそれは詩人の内部に存在しているのであり、だからこそ、忘却という海の作用から逃れようとする意志が、ヤシの木というイメージを作り出したのである。こう考えると、生が続く限り常に干渉する海の作用が詩人を詩作に駆り立てるという意味で、二つの作品の構図は一致している。「わたしのなかで死ぬ方法」を「あなた」に見せようというとき、詩人は病によって死のすぐ近くを渡ったのであろう。そこで「目を閉じる」ことによって、切実な希望としてのヤシの木のイメージを通してではなく、あるがままの「あなた」と再び出会う。シュペルヴィエルの作品において忘却や眠りは極めて重要な役割を持っており、シュペルヴィエルにとって詩作とはそうした「不確定性」の領域(注3)におけるポエジーの発現とその固着に他ならないが、それはここでも海として表象されており、「あなた」が「ひとりきりで、世を去りかけた場所」も海ならば、「あなたが帰って来るのを見る」のも海においてである。「あなた」を一人で死なせ、忘却の向こうに追いやってしまうということが一つの「海への回帰」、つまり象徴的な死としてあり得る一方で、詩人である「わたし」の死によって全てを無に帰してしまうというかたちでの終末もまた一つの「死」としてあり得る。この詩で描かれているのは一方の「死」から逃れるための切実な詩作と最終的なもう一方の「死」である。
 こうして、詩作と最終的な「死」との関係性においても、先の詩とこちらの詩とは同じ構造を有していることが明らかとなった。これらの作品において海のイメージを持つ死は生を包み込みながら詩人を詩作へと駆り立て、最後には詩人の回帰というかたちで全てを無に帰してしまう。しかし実際には詩人の書いた作品が読者の元に、取りも直さずこの世界に残るのであり、こうした構造はシュペルヴィエルの作品に普遍的に適用出来る見方であると言えるだろう。

(注1)佐藤園子「事物・眠り・言葉:ジュール・シュペルヴィエルの夢の領域」『ICU比較文化』、2014、46巻、p.7
(注2)Claude Roy, Jules Supervielle, Seghers, 1949, p.33
(注3)増田悦子「ジュール・シュペルヴィエルの変身の詩と「内」への試み」『神戸海星女子学院大学・短期大学研究紀要』、1995、34巻、pp.177-203などに詳しい。

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