共に泣き歌うミューズ―モーパッサン「最初の閃光」論

 詩人が想いを寄せる相手を様々なかたちで作品の中に登場させる例は枚挙に暇がないが、その内でもとりわけ、実際には詩人と極めて近い距離にいるとは限らない不在の人物を想像において主題とするとき、その姿や振る舞い、存在が言葉によって象られていく一方で、そうした全ては移ろいゆく詩人の想像力が生み出し続ける幻影に他ならないため、幻影と戯れる詩人の自意識も必然的に揺るがされるという特徴がみられる。こうして自意識を揺るがされつつも詩を書き連ねるという営為によって、作品は詩作のスタイル、すなわち今ペンを握っている詩人がこれからどのように進むのかというテーマを帯びることになる。本論ではギー・ド・モーパッサン(1850-1893)の18歳のときの作品である「最初の閃光」(1868)を取り上げ、こうした幻影が詩人に対して現れる位置を焦点としつつ、作品中で《ミューズ》となる幻影の影響により詩人の自意識の変革が成し遂げられる過程について分析する。なお、引用する詩はGuy de Maupassant, "Premier éclair", Des Vers et autres poèmes, Emmanuel Vincent(éd.), L’Université de Rouen, 2001, pp.170-175による。
 この詩は、34行からなる最初の連では詩人の想い人の姿をした幻影の出現とそれに激しく戸惑う詩人の様子が描かれ、それ以降の連は《詩人》と《ミューズ》の掛け合いによって構成されている。この詩の書かれた1868年はルーアンの詩人ルイ・ブイエに心酔し、自ら家を訪ねその指導を仰いだ時期であるから (注1)、《詩人》という言葉にはブイエを背景としつつ、詩作への熱意溢れるモーパッサン自身の姿をみることが出来る。詩は次のように始まる。

 Le soir, à ce moment où la nuit est si sombre
 Que le voyageur tremble et craint de voir dans l’ombre
 Quelque fantôme errant au fond des grands bois noirs,
 À l’heure où le hibou s’enfuit des vieux manoirs,
 Je monte exténué par le mal qui m’accable ;
 Sans courage, brisé, je m’assieds à ma table,
 Délivré cependant des regards des humains.
 Et puis je reste là, le front dans mes deux mains.
 Alors je vois soudain surgir la chaste image
 D’une enfant de quinze ans, au pur et beau visage.

 夕間暮れ、この時刻になると夜はもう暗いばかりとなり
 旅人は震え怯えている 影に紛れ なにか得体のしれぬ幻が
 黒く 大きな木々の底を漂うところを 見やしないかと、
 ミミズクは古い屋敷のある方から 飛び立っていくこの時間、
 私は 我が身を打ちひしぐ嫌気のせいで 疲労困憊の有様だった。
 果敢な気持ちもなく、心折れ、自分の机に向かって座っていた、
 それでも人間の視線からは逃れていられた。
 その上ずっと動かずに、額には両の手を当て支えていた。
 そして私は そのときだ 突然あの純潔な姿を見た
 十五歳の少女、端正で美しい顔立ちをしたあの少女。

 この箇所の7行目で、詩人は自分が「人間の視線からは逃れていられた」と語っている。この一行によって、旅人やミミズクの存在していた暗い風景は、詩人の部屋を取り囲む外的な環境から、詩人が自由な創造を行うための半ば内的な背景へと性質を変じている。こうした背景の上に突然現れるのが「少女 une enfant」の姿である。少女は泣きながら現れ、詩人を甘く見詰めながら「さようなら――あなたを愛している あなたは行ってしまう。」と口にする。それを合図に、詩人の心象風景は一気に荒々しいものとなる。

 Elle me dit : « Adieu — je t’aime et toi tu pars. »
 Quand un volcan soudain éclate au sein des ondes
 La mer bouillonne et monte et sous les eaux profondes
 Un bruit gronde, effrayant — l’air est lourd, le ciel noir
 Le matelot se signe et ne peut concevoir
 D’où vient qu’avec ce bruit la mer monte et s’agite.

 少女は言う。“さようなら――あなたを愛している あなたは行ってしまう。”
 突然 波の奥底で 火山が爆発すると
 海は泡立ち 迫り上がり 深い水の下で
 恐ろしく大きな音がとどろき――黒く空は染まり、空気は重く
 水夫は十字を切る が理解することはできない
 こんな音と共に どうして海が迫り上がって揺れ動くのか。

 ここでまた水夫という人間が風景に登場しているが、詩人の情動は海底火山の噴火として作用するのであり、登場する人間は詩人の精神を説明しない。だが、これまでにみた旅人、ミミズク、水夫のいずれを取っても、どこかで詩人に通じる部分を持っているということは注意しておくべきだろう(後に「間抜けな百姓」が出て来る箇所があるが、この場合にしても同様である)。ここに引いた台詞やこの先の詩の展開から、「少女」は――少なくとも設定上――詩人が故郷に残して来た人物であるということが分かるが、この境遇は旅人に重ねられる。暗い闇に満ちた、しかし広い空の中へと飛び立っていくミミズクは苦難から逃れようとする詩人の願望を示しているようであるし、襲い掛かる災禍になすすべなく、情況を冷静に把握することも出来ずに問いを放ち続ける水夫の姿も詩人に近しい。しかしここで詩人は風景そのものなのであり、突如始まり抑えることの出来ない厄災なのである。故郷での辛い別れは詩人にとって生々しい精神の傷となっており、その場面を思い出すことで、詩人は激しい混乱に陥ってしまう。詩人は旅人やミミズクに自己を同一化することが出来ないが、それは自身を相対化してみることが出来ないということであり、疲労困憊してしまうほど心の傷が痛んでも、感情を吹き荒ぶままにさせるほかなかったのである。
 そしてそうした状況にあって詩人の想像が作り出したのが「少女」の幻影――《ミューズ》である。《ミューズ》は、自分は詩人を慰める者であると語る。

 C’est moi qui bénis, qui prie et qui chante,
 Qui parle à l’amant de sa belle amante.
 C’est moi qui console, ah, viens dans mes bras.

 私は祝福するもの、祈りそして歌うもの、
 美しいその恋人を 愛するものに語るもの。
 私は慰めるもの、ああ、私の腕の中においで。

 このように、見かけは「少女」の姿をしていても、《ミューズ》は、《ミューズ》の語りにおいて「少女」とは完全に切り離されている。第1連の前半部においては、「少女」が過去確かに口にしたであろう台詞を発していることから、この幻影はかなり「少女」に近いものであった。しかし連が改められ、《ミューズ》と名指されるとき、両者の分離は一段階進んでいると言うことが出来る。それでは、この幻影はどのようにして《ミューズ》という人格を獲得したのであろうか。
 第1連の後半に戻ると、噴火の描写に重ねるかたちで、詩人の身体もひどく痛めつけられていることが語られた後で、詩人は次のように問いかけている。

 Mais quelle est, dieu puissant, cette ombre transparente
 Qui prend pour me tromper les traits de mon amante ?
 Comme elle est jeune et belle… Ah, dis-moi, n’es-tu pas ?

 だがその正体はなんだ、強大なる神よ、この透明な影
 私をだますために 私の恋人の顔つきをそっくり真似て?
 若くて美しくて……ああ、なんてことだ、君なんだろう?

 「少女」の言葉によって瞬間的に錯乱状態に陥っていた詩人は、ここでふと冷静さを取り戻し、目の前の影の正体を疑ってかかるのである。こうした問いかけに対し、続く連で《ミューズ》は、自分は「涙のミューズ la muse des pleurs」であると告げ、詩人が泣いているのを見たのでやって来たと語る。しかし、第1連において泣いていることが描写されていたのは「少女」の方であり、詩人はむしろ泣くことも出来ないほどに苛まれ血を流していたのである。従って、《ミューズ》は「少女」の幻影がその姿を保ちつつ性質を変えたというよりも、同じ幻影の中に、全く新しい人格がここで初めて与えられ、「少女」のそれと入れ替わったと考える方が的確である。
 《ミューズ》は、詩人に一緒に泣くように迫る。しかし、続く《詩人》の連では詩人はそれに抵抗を示している。

 Et quoi ! ne sais-tu pas que l’on veut quand on aime
 Conserver tout son mal jusqu’à l’heure suprême ?
 Je l’aime, et pour l’aimer je consens à souffrir.
 Je l’aime, et pour l’amer je voudrais bien mourir.
 Je l’aime, et je chéris le chagrin qui m’accable :
 Je voudrais devenir encore plus misérable.

 なに! 君はしらないのか 愛するとき人は
 至高のそのときまで 苦味のすべてを保っていたいものだと?
 ぼくは彼女が好きだ、彼女を愛するため苦しむことに同意する。
 ぼくは彼女が好きだ、彼女を愛するためにむしろ死んでしまいたい。
 ぼくは彼女が好きだ、ぼくを打ちひしぐ心痛もぼくには大切なのだ。
 ぼくは 今よりもっと惨たらしいものになりたい。

 このように、詩人は《ミューズ》に癒されるよりも、苦しみに身を晒し続けることを望むと語っている。それはあたかも、こうして苦しみ続けることが、痛ましい記憶を持つ詩人の生きる唯一の道であるかのようである。しかし、他ならないこの詩人の想像の所産である《ミューズ》が、詩人が泣いているのを見てやって来たと語っていたことを思い出さなくてはならない。詩人は「泣けない」のであるが、「泣いている自分」を慰めるミューズを確かに要請しているのである。詩人は度々「渇いた」という意味の語(sec, aride, etc.)を使用するが、「一緒に泣く」ことを求める《ミューズ》の言葉によって、「泣いている自分」へと送り返され、また、《ミューズ》と「一緒に歌う」ことによって、かつての幸福な思い出を取り戻すことになるのである。
 嵐の後で力強く復活する木々の様子を語った後で、《ミューズ》は次のように言う。

 Ainsi ne crains rien, l’inspiration
 Est moins forte, enfant, que la Passion ;
 L’une fait souffrir : elle est belle et folle ;
 Mais l’autre souvent guérit et console.
 Chante, ô mon Poëte, et chante toujours,
 Car la lyre est sœur des tristes amours.

 こんな風に なにも恐れなくていい、霊感は
 《情熱》ほどには、ほら、強くない。
 片方は苦しみを覚えさせる――美しいがとても激しい、
 けれどもう片方は ときどき傷を癒して慰めてくれる。
 歌って、おお 私の《詩人》よ、そして歌い続けて、
 竪琴は悲しい愛の姉妹なのだから。

 ここで《ミューズ》が、霊感を授けるよりも、むしろそうした霊感に搔き乱される詩人の精神を落ち着ける役目を果たしていることは注目に値する。第1連での「少女」の現れ方と詩中における《ミューズ》の登場の仕方を比較すれば、事態は明確なものとなる。
 「少女」の出現は、部屋の中で苦しみに沈み込んでいる詩人の前に突然姿を見せるというもので、詩人の抱える記憶が起こした発作的な現象であった。この場合、確かに詩人の心理状態という内的な要素が原因となってはいるが、全く予期せぬ出現それ自体は外的な現象である。他方で、それに続く《ミューズ》の登場は、詩人が目の前の幻影を疑い、それと対話することによってなされており、内的なものであると言える。ここでは、「霊感」を授けるのは記憶の中の「少女」であり、そうして激しく自らを痛めつけることになった詩人の精神を、《ミューズ》が調停し、詩の制作へと導いているのである。
 詩人はこうして鼓舞され、甘い喜びと苦い落ち込みの間を行き来しながら、《ミューズ》と共に「歌い続ける」。そして詩は《ミューズ》の次の連で締めくくられている。

 Si ton amante est infidèle
 Ne suis-je pas et chaste et belle ?
 Je suis la fille d’Apollon,
 Et je puis t’accorder un don
 Qui console ceux qu’on oublie,
 Ô poëte, c’est le génie !

 もし君の恋人が不実でも
 この私は純潔でかつ美しいでしょう?
 だって私はアポロンの娘、
 では君に ひとつ与えてあげましょう
 人の忘れたものたちを慰めるような、
 おお 詩人よ、それは才能!

 ここには、18歳のモーパッサンが思い描いていた詩人の理想的な姿を克明に見て取ることが出来る。天賦の才能を持つ詩人は、そのときどきの霊感を受けながら、普通の人が目を向けないものたち、或いは表面的に触れることしか出来ないものたちを、詩句によって繊細に描き出す使命を負っているのである。霊感を授かるだけでは、その凶暴な側面によって打ちひしがれるばかりで、その経験を適切に言葉に写し取ることが出来ない。また、今直面している心痛の裏には、忘れてしまった過去の喜びがあるのだが、自分の感情を相対化してみることが出来なければ、そうした奥深いものの姿を捉えることは叶わない。苦しみに我が身を晒し続けることこそが自らに訪れる霊感に対して取るべき最善の態度であると思っていた詩人は、《ミューズ》との交流によって、そうした苦しみを感じながらもなお、過去の溢れんばかりの喜びや嵐の後の穏やかな未来を同時に歌い、霊感の中で、自身の詩人としての《情熱》が湧き上がる感覚を知るのである。
 かつての詩人にとって、「泣かない」ということは自らを耐え難い痛みに縛り付けるという態度の表明であった。しかし、「一緒に泣こう」という《ミューズ》によって、この自意識は覆され、才能のままに、自らの経験を情感豊かに詩句にしていくという理想的な詩人のそれへと置き換わっている。ただし、純粋な霊感の所産である「少女」とは違って、《ミューズ》の登場は詩人の内的な要請によるものであったから、この転換はやはり《詩人》たらねばと努めるモーパッサンが求めた結果としての出来事であると言わなくてはならない。詩人は、理想的な《詩人》になるために自らの内部に《ミューズ》を登場させ、この《ミューズ》を介した自己対話によって遂に大きな転換点に至るのである。

(注1)足立和彦作成「モーパッサン年表」参照。「モーパッサンを巡って」
http://maupassant.info/chronologie.html


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