みずほ銀行は人工精神の夢を見るか?

みずほ銀行は、1960年、実業家の秋吉貞次郎によって創業された銀行機関である。当行は高度経済成長期にかけて急成長を遂げ、現在では日本有数の巨大企業に成長した。
しかし、みずほ銀行が創業者の奇妙な「実験」に発端を持つことはあまり知られていない。その始まりは、太平洋戦争にまで遡る。


1913年、貞次郎は埼玉の裕福な商家のもとに生まれた。
長男であった彼は一族の期待と才能に支えられ、旧制高校に合格、その後は東京帝国大学理学部に進学する。大学では数学を専攻し、卒業すると金丸重工に就職した。
1938年、常磐瑞穂と結婚。日本が日中戦争の勃発に揺れる最中のことである。貞次郎は25歳、瑞穂は20歳であった。
1941年には太平洋戦争が始まった。戦局の悪化に伴って、金丸重工は生産のほとんどを軍需に充てるようになり、貞次郎は丸の内で日夜研究開発に勤しんだ。瑞穂も労働力として徴用され、おもに織工として働いていた。

そのさなかの1945年3月10日、二人を東京大空襲が襲う。貞次郎のいたオフィスは辛うじて難を逃れたが、自宅のあった深川一帯は完全な焦土と化した。彼は焼け跡に断片的な焼死体を見つけ、妻の死を確信するに至った。

戦後、貞次郎は空襲被害や財閥解体のあおりを受けて弱小化した金丸重工に見切りをつけ、辞職。その直後から、彼は実家に籠り、ひとり研究に打ち込むようになる。それは、死別した妻に再会するための、人間の心を人工的に再現する方法の探求であった。
当然ながら、秋吉家の親族たちは困惑した。しかし、東京で被爆し妻をも失った貞次郎への同情心からか、秋吉家は一心不乱に机へと向かう貞次郎を養い続けた。

1949年、貞次郎は結論に至る。人間の言語的・非言語的な情報処理プロセスを、再帰性を持つ特殊な関数として数理モデル化することに成功したのである。
翌年、貞次郎は彼の理論に基づいて、原始的なコンピューターを試作品の「心」として完成させたが、結果は芳しくなかった。当時の技術水準では、必要な処理能力を確保できず、簡単なテストを実行するのにも500年以上の時間がかかるという有様だった。

だが成果が無いわけではなかった。試作品を作る傍ら、脳神経科学の研究を進めるうちに、人間のニューラルネットワークを行き交う電気信号に特有のパターンを発見したのである。
貞次郎はそのモデルを巨大な図面に展開し、立体模型も作った。そしてそのシステムの媒体となるものを模索した結果、「心」によく似た構造を発見する。それは経済の動きであった。

この時期、彼は次のような記述を残している。

6月12日
4月の結果[注:「心」を模した模型のこと]がカネの運動に似ると気付く。しかし肝要なのがヒトの関係かカネの力学か不明である。

6月25日
経済学の本を読む日々。一般の数学が分からず難儀する[注:貞次郎は独自の数学的概念を多数用いて研究をしていた]。閉回多様体の純正転写に概ね同じと見ゆ。

7月2日
またしても火の夢。精神に最も近似的なのは銀行だと考える。事業計画に難航。

7月9日
記憶を常形環平面の封建化により形成すると重度のインフレで失われる恐れがある。日銀の介入も厄介である。余程の大銀行を作らねばならぬ。

8月13日
みずほの見取り図が完成。人を集めねば。

貞次郎の手記より抜粋

こうして、貞次郎は理論を実現するために動き出す。彼は秋吉家の後援と金丸重工時代のコネクションを活用し、多くの人材と資金を確保することに成功した。新銀行の開業に加わろうと集まった人々は、その異様な事業計画に困惑しつつ、貞次郎の熱意に応えるべく奮闘した。

1952年、貞次郎たちは第一に「秋吉財務」を立ち上げる。これは企業の経理・財務分野のコンサルタントや業務受託の事業を旨とし、関東圏の新興中小企業を主な顧客とする企業であった。
秋吉財務は、開業からの数年間では苦戦を強いられたが、高度経済成長の波を受けて顧客の企業が急成長するのに伴い規模を拡大していった。

事業の拡張を続け、ついに貞次郎は銀行の開設に漕ぎつける。1960年、「みずほ銀行」が創業。
みずほ銀行は秋吉財務の取引先企業を足掛かりとして、急速に発展を遂げる。これにより、貞次郎は性急にも思われる勢いで事業拡大を断行することができた。彼は独自の理論に基づいて計算を行い、支店の位置や業務内容、従業員の人数に至るまで全てを決定したという。彼の遠大な計画が、徐々に実現しようとしていたのである。

順調な経営によって有数の大銀行と化したみずほ銀行だが、規模の拡大に伴って浮上してきた問題があった。それは、預金の紛失や、契約書の捏造をはじめとした、数々の不祥事である。
かねてよりみずほ銀行は、この手の事件に対しては極めて厳しい処分を行ってきた。「みずほ」計画が成功するためには、銀行全体が一つの機械のように動作する必要があったからである。ゆえに、行員にはつねに厳格な規律が求められていた。
貞次郎は、短期間に不祥事が頻発したことに激怒し、多数の行員への懲戒や解雇処分を命令したが、それでもこうした問題は不定期に発生した。社を挙げての調査が行われたが、事件は原因不明のまま迷宮入りしてしまうことが多かった。

1970年、問題の対処に追われるなか貞次郎の体調は急激に悪化し、入院を余儀なくされる。銀行経営を離れた彼は、20年前と同じ、人工精神の研究に没頭した。
病室には連日、社内の重役や技術者が呼び出された。ある者は異常に事細かな指示を受け取り、ある者は彼の思考が理解できず怒声と共に追い出された。
初めこそそんな調子であった貞次郎だが、次第に人を遠ざけるようになり、病状も徐々に悪化していった。
ところが、ある時を境に貞次郎は憑き物が落ちたようになったという。死の数日前に呼び出された酒井副社長は、次のように述懐する。貞次郎はすっかり痩せ細っており、大変穏やかで仙人のようであった。散乱していた大量のメモ書きは用済みとばかりに束ねられ、病室は見違えるように整頓されていた。依然として続く全国的な不祥事の報告を聞いた彼は、「瑞穂が息をしてるんだよ」と一言呟き、微笑んだ。

1972年2月8日、貞次郎は息を引き取った。その最期は静かなものであった。
結局のところ、彼の計画が成功したのかは明らかでない。晩年の研究記録が社内機密とされ、部外者はもちろん、ほとんどの社員にも閲覧が禁じられているためだ。
今はただ、ひとりの女性の名を冠したメガバンクの存在と、不定期に発生する原因不明のシステム障害だけが、多くの人に知られているのみである。

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