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何でも食べるブラック地蔵菩薩や闇イエスとの闇鍋パーティー


アシュタールさんの話の中でも新鮮な話です。

「苦手な人を受容することは、自分を受容すること、自分を愛することと同等です。」
「苦手だと思っていることにトライしたら、効率的に愛を学ぶことに有効です。」
結果的にケースバイケースで、あえて苦手な人と会う必要はないと落ち着いたのですが、自分の中で深まる話に感じました。

自分の中でコンフォートゾーンを決めている。
自分の気分の良いことと悪いことをわけて、気分の良いことを考えることは有益だけど、すべてを範疇に入れていない。
気分の悪いことの中でもコンフォートゾーンになることを排除している。
ワンネスと言いながら悪意を避けている。
コンフォートゾーンを縮めている。
コンフォートゾーンを全宇宙まで広げるのがワンネスかもしれない。
自分の中の嫌な部分がありながら、ワンネスもクソもない。
嫌な相手や嫌な事の中に好きがあるから、自分の嫌な部分も好きになる。
今までの記事は、結局は好き嫌いを書いてる。
そんなふうに考えたりします。


ちょっと違うのかもしれないけど、何でも食べられるタフさが良いのかもしれません。
実際には個人のアレルギーや加工された不健康食品、分解酵素を持ってない日本人に合わない食材などなどあるのですが、そういうの置いといて、出されたものは何でも食べる豪快さ無頓着さを考えたりします。
人生なんて何が起こるかわからない闇鍋パーティーみたいもん。ウインナーしか食べられないって子どもじゃないんだから、たまたま箸でつかんだもの、たまたま出会った苦手な人を、つべこべ言わず口に放り込んでしまいましょう。

繊細に物事を考えるのも大事ですが、ちょっとお腹入れただけでお腹を壊す繊細な消化器より、そこら辺にあるばい菌でさえ丸飲み利用して体内細菌として自分に有効にさせちゃう、いい意味での大雑把の懐が深い人間性もいいですね。

地蔵菩薩なんかは地獄に落ちるような悪人でさえ救います。この人は苦手なんて考えませんよね。
イエスが苦手な人に右頬をぶたれたから、相手の左頬に倍返しする、なんて事は考えませんよね。
いやそんな、ブラック地蔵菩薩や闇イエスさえも受け入れる、そのぐらいの度量があったら、何も怖いことないです。

そこまでに至る必要ないでしょうか、私たちはみんな繊細すぎるかもしれないですね。
繊細だからこそワンネスにたどり着いたのだから、今度はワンネスからズボラで大胆な逆方向に広がっていくのが、高い次元の世界かも。

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