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Triangle Inferno - 宝塚版「シャーロック・ホームズ」

 宝塚を一番楽しむことができていたのはファンになりたての頃だったなとふと思い出すことがある。当時、宝塚は地上波でも放送されていたので、映像を後輩のお母様が過去の映像を沢山貸し下さり、それを観るのが楽しみだった。
 自由になるお金のない演劇が大好きだった中学生にとって、劇場に行けなくとも未知の作品に数多く触れられる宝塚はとても魅力的、そして貴重な存在だった。

 元々、芝居やミュージカルが好きだったこともあり、前半の芝居が私にとってはハイライトで。どれだけ観てもレビューの魅力や面白さを理解できずにいた。その評価は劇場において生の舞台を観ても大きく変わることはなかった。
 宝塚を初めて目にした日から四半世紀以上が経過したが私にとってのメインディッシュは変わらず「芝居」と「ミュージカル」であり。「レビュー」はポーションが大きすぎるスイーツというポジションであり続けている。

 それ故、友人を宝塚に誘うときは原則1本物(2幕で1本の芝居やミュージカルを上演する作品)でと決めている。
 特に宝塚を観たことがない人に、見知らぬ人が歌い踊り続けるレビューを楽しんでもらうことはハードルが高いと考えているからである。

 その一方で、大きな劇場において100分で良質な芝居を提供することが如何に難しいことであるかは想像に難くなく。
 上演時間に対し、ちょうどいい質量のストーリーがテンポよく展開される演目にはなかなかお目にかかることができないのが宝塚観劇の現実でもある。

 例にもれず、前置きが長くなった。

 結論を書こう。
 宝塚版『シャーロック・ホームズ』は質・量揃った名作だった。
 そして、弊演のレビュー『Délicieux(デリシュー)!-甘美なる巴里-』は宝塚になじみのない人でも楽しめる演目であった。

 こと芝居のネタバレを嫌う私が、新作演目であるにも関わらず公演の千秋楽を前にレポートを公開したのは配信観劇を悩んでいる方がいたならばその方の一助になればとの思いからである。

Disclaimer
 東京公演千秋楽の配信観劇を悩んでいる宝塚に対し興味関心が深くない友人に読んでもらうことを前提に作成したプレゼンテーションをベースとしており、ネタバレをしています。ネタバレ回避の方は閲覧回避を。
 他方、クライマックス(ホームズ対モリアーティの一連の最終攻防)については言及を回避しています。
 そして、例にもれず長編となっている旨、ご容赦を。

シャーロック・ホームズ-The Game Is Afoot!-


 子供の頃、大好きで繰り返し読んだホームズ。
 だが、宝塚が舞台化と聞き、心が躍ることはなかった。

 これまでも、色々な人がホームズを舞台化、映画化してきた。
 ホームズとは名ばかりのものもあった、小説にある設定などはリアルに再現されているもののストーリー(脚本)が貧弱だったり。外伝的な描かれ方をして、その脚本家のホームズ像に辟易したこともー
 振り返ると、私にとって映像化されたホームズは「はずれ」作が圧倒的に多く、ホームズとは本で読むものーすなわち、自分の中で想像を膨らませ楽しむに限るとさえ思っている節があった。

 そして、今だからこそ言えるが、最初にこの芝居のタイトルを見たとき、ひどくがっかりしたのだ。副題に明確に書かれていたのだ。
 「サー・アーサー・コナン・ドイルの著したキャラクターに拠る」

 考えてみれば当然である。純然たる推理モノ、それも殺人事件などが多いホームズを。夢の世界の番人を自負する宝塚がそのまま上演するはずがなかった。
 そしてショーとの二本立て=芝居は100分という明確なメッセージに、シャーロック・ホームズの名を冠しただけの薄い話になるのだろうか…そんな嫌な予感が頭をよぎったのだ。
 それでも、ホームズと聞けば行かねばならないと思うほどにはホームズが好きなのである。
 直近で公開している舞台のレポートが宝塚のレポートではあるが、私自身が宝塚を観劇する回数はそう多くはない。実際、宙組を最後に劇場で観たのは1000days劇場が最後だと思う。

 会場に入ると緞帳はすでに上がり、不穏な空気感漂うスクリーンカーテン。そして、4か月ぶりに足を踏み入れた宝塚の劇場で私を出迎えてくれたのはオーケストラのチューニングの音だった。
 コロナ対策で宝塚から生のオーケストラ演奏がなくなって久しく。久々に聴く楽器の音はひどく懐かしく、それだけで涙腺が緩みそうになった。
 個々が奏でる不規則な音は変わらず短調で、それは煤煙にまみれ、これから起きるであろう事件の序曲として相応しいものだった。

 19世紀末のロンドンへー
 頭の中、時空の錠が回転する音が鳴った。


 高笑いする女性の声が聞こえてくる。
 アイリーン・アドラーが海軍大佐の男性とともに舞台上へ登場する。

 幕開き早々にも拘わらず、大いなる不安が私の中に生まれた。アイリーンの描写である。

 アイリーンは「ボヘミアの醜聞」という短編に登場する魅力的なオペラ歌手である。人気があるので誤解されがちだがこの短編集にしか登場しない、「サブキャラクター」である。
 知性=本人の実力だけを武器にホームズを翻弄した唯一の女性、いや他の登場人物を思い返しても。「ホームズを制した数少ない人間」といった方が正しいかもしれない。

 他方で。アイリーンを高級娼婦のように描いている作品も相応に有る。

 ホームズは彼女について「男が命をかけても惜しくないほどの、美しく心ひかれる顔をした女性」と言い、痛い目にあった(最も自業自得なのだが)ボヘミア王は「鉄の精神、顔はどの女にも負けぬ美しさ、心はどの男にも負けぬ強さ」と彼女を表する。

 美しさの中にある鋼鉄の強さ、賢さー
 原作の中にはそういったものが表現されているのだが、映像等の実態を持つ作品になると途端に、娼婦的な表現がなされたりするのだ。そこには悪女の匂いや色仕掛けをする狡猾な女性像が見え隠れする。
 アイリーンは強かである。だが、狡猾ではない。
 賢い女性であるが、狡賢い人間ではない。
 先を推察し裏をかくことができる女性である。だが、計算高くはない。
 そう考えている私にとって、幕開きより意味ありげな視線を蛇のように絡ませ。色香を振りまくアイリーンに聊かの落胆を覚えたのだ。

 これは、私が女性で。
 そして、圧倒的男性社会(所謂総合職と呼ばれる女性は5%程度しかいない世界)で働いており。女性であることの武器を間違った方向で遣う一部の人に対する強烈な嫌悪感の裏返しであるのではーそう思うこともある。
 「アイリーンは知性的で、芯が強く、美しくあって欲しい」という願望や誇大妄想に近いものなのかもしれない。
 全くの余談だが、そう思っている私にとって唯一、これこそがアイリーン・アドラーだと思っているのはキャロル・ネルソン・ダグラスのパスティーシュ「おやすみなさい、ホームズさん」だということを書き添えておく。

 その聊かの落胆を一掃したのは舞台上に現れたロンドンの街だった。
 産業革命の活気の影にあるロンドンの湿度とでもいえばいいのだろうか、その影を効果的に描写していたのがビルを這う太い配管、そしてその配管は大きな鎖そのものとなっていた。

 ポスターにも用いられた鎖が、鎖そのものではなく、建物の一部としてさりげなくも存在感をもって登場したことに、アイリーンの造形に対する違和感が吹き飛ばされた。
 あぁ、間違いない。
 ここは18世紀末、シャーロック・ホームズが生きていたロンドンだ。

 照明が変わると鎖の形がはっきりと浮かび上がる。血管のように赤黒く不気味に光る鎖。
 「何か」が起きるならばー
 それは、今宵、この場所以外であるはずがないとの確信を呼び起こさせる。

 その街に、ひざを折り、背を丸めた薄汚い浮浪者が現れる。
 シャーロック・ホームズだ。

 センター以外では使いにくい人、センターに立つために頑張ってきた人。
 今回、初めて劇場で観た真風涼帆さんの印象だ。
 星組時代に出演していた初演「オーシャンズ11」のライナスが頭に過った。少し肩をすぼめて自信がなさそうにスリをはたらくライナスというのは、今思うと彼女に対して宛て書きされた部分が大いにあったのではないかと思う。
 女性しかいない宝塚の世界で男性を演じる真風さんの圧倒的に恵まれた躯体は舞台のどこにあってもパッと目をひく。

 そんな真風さんが足を折り、腰を折り、肩をすぼめて歩いているというだけで面白いのだが、それ以上におかしかったのは、事前情報を一切見ずに観劇に臨んだ自分が、ホームズが変装して登場するということを無意識に予測し、それも確信していたということだ。

 きらびやかな宝塚からは最も縁遠い姿で、ホームズが得意とする変装をして登場するに違いないという観客のささやかな「推理」がぴたりぴたりとはまっていく心地よさ。生田先生の打ち出そうとする世界観が自分が獏と思い描いていた「宝塚版シャーロック・ホームズ」に当てはまっていく。

 ベイカー・ストリート・イレギュラーズの前に現れた襤褸をまとった老人。ロンドンの闇に消えた老人が美しき真風ホームズであるとーいつどこで正体を明かすのかー
 答えはせりあがってきた221Bが教えてくれた。ホームズを待つレストレードがワトスンに噛みついていたのだ。「さぁ、来るんだ、ホームズ」という観客の期待値が上がったところに襤褸をまとった彼ーホームズは現れる。

 小さく体を縮めていた老人はワトスンに飲み水を要求し、一気に呷ると縮めていた体をすっくと伸ばし鮮やかなスーツ姿のシャーロック・ホームズに変身する。
 宝塚の衣装は歌舞伎の引き抜き同様、上手く作られているなと都度感心させられるが、顔の造作までしっかり変える今回の小道具は見事だった(真風ホームズの髪型が一切崩れなかったということにも嘆息したのは言わずもがなだ)。
 レストレードが騙されるのも致し方あるまい。
 そう思うのと同時に、まだホームズは生きているというのに、私の頭の中にあったエピソードは「空き家の住人」ー亡くなったと思われていたホームズが老人に変装して現れるシーンに飛んでいた。驚いているのがワトスンかレストレードかの違いだけで。

 こんな調子で舞台が進むので、細やかな演出や何気ない一言に、いちいち破顔するのを止められない。
 舞台を観るときは緩く両手首をつかんで観劇するのが私の「癖」なのだが、今回は早々に足を組み、右手人差し指と親指を唇から頤にかけて当て、左ひじを肘あてに左手で右ひじを支えながら観ていた。
 目の前で進行している事象と脳内にある情報を猛スピードで突合させたいときに無意識に取る体制だと最近自覚するようになった。
 そして、何か思い出そうとするとき、人差し指で唇を3回叩く癖もあり。マスク越しに自分の指の感触を得たとき、何とも言えぬ恍惚感を憶えた。
 あぁ、この演目は「私を『楽しませて』くれている」とー思わず登場人物のセリフを借りたい気分だった。

 話がそれるが、「宝塚の演目あるある」で戸惑うようなタイトルが演目の前に付く。例えば弊演の『Délicieux!-甘美なる巴里-』の冒頭につく【タカラヅカ・スペクタキュラー】といったものだ。
 これについて質問をされると回答に困るので、大抵「観れば(なんとなく)わかるよ」とお茶を濁すことにしている。

 ところが、「シャーロック・ホームズ」においてはただ【Musical】となっており。生田先生はどこまで純然たる「ミュージカル」として勝負をしてくるのかという点が、大いなる興味の対象であった。

 生田先生の勝負が本気の真っ向勝負であることを認識したのが市民たちをコロスとしてジャック・ザ・リッパー「ら」の犯行を歌い演じさせるシーンだった。
 真風ホームズが和希レストレードに事件のあらましをセリフで伝える221Bのすぐ後ろで、犯行のあらましを市街地にいるコロス達に演じさせるシーンである。

 歌だけで犯行を説明するには少々重い。メロディーラインに流されて、観客は犯行の状況を頭に留められないだろう。
 かといって、セリフだけで伝えるには観客が咀嚼し頭に焼き付ける前に物語が流れて行ってしまう。そこを、絶妙なバランスで歌とセリフに振り分けて落とし込んだのだ。
 ロンドン市街を殺人事件の「ステージ」とし、そこで被害者の人数や犯行のあらましを視覚的に表現し、211Bという異なるレイヤーでホームズに犯行を言語化して語らせる手法を取ったのだ。

 人間が限られた時間の中で受け取れる情報には上限がある。
 短い舞台であればあるほど、物語の背景となる情報を幕開き後、如何に短時間で観客にインプットできるかが勝負のカギとなる。
 生田演出はミュージカルが持つ歌・ダンス・芝居の3つの武器をバランスよく使いこなし、表現してきた。
 人間の情報処理能力のぎりぎりを攻めてきた生田先生に拍手を送りたい。

 宝塚はスターシステムに依拠しているせいか、作品としてのクオリティが低いと感じることがしばしばある。
 キャラクターに味付けをするのは役者だが、そもそもの素材=「脚本」が良くない、切れ味の悪い包丁で調理されている=「演出」が良くないというケースが他の舞台よりも多いエンターテイメントだと思っている。
 演者がどれだけ努力をしても、脚本や演出に難がある作品を面白いと評価することは残念ながら私にはできない(個人的には宝塚のファンはこの点について、劇団に対しもっとシビアに意見を表明すべきだと思っている)。

 宝塚版「シャーロック・ホームズ」が魅力的であったのは、ホームズのパスティーシュという素材に対し、「ミュージカル」という最適な調理法が用いられ、そこにいい役者を配することができた点にあると思う。

 「さぁ、獲物が飛び出してくるぞ」
 ーこのセリフに「ワトスン君」とつけたくなるのは私だけだろうか。
 ジャック・ザ・リッパーをおびき出す罠を仕掛けたホームズの前に「ジャック・ザ・リッパー」の運び屋たちが現れる。
 荷車に乗せられた箱の中からは猿ぐつわを嵌められた女性の姿。そして箱の中には「The Game is Up」の文字-

 真風ホームズは箱の中身が瀕死でも昏睡状態でもない人間であると認識した瞬間、箱に対する興味を失うが、観客の目は「The Game is Up」の文字にくぎ付けになる。
 タイトルにもなっている「The Game is Afoot!」と対極にある言葉が並んでいるのだ。このあたりの観客の視線の誘導のさせ方も実にスムーズでいい効果が生まれている。
 照明はずっとついた状態であるし、そこにいる役者も変わりないのだが局面が明らかに変わったことを印象付けている。

 なお、ホームズの作品において「The Game is Afoot!」はワトスンに事件が起きたことを知らせるセリフ、すなわち「獲物が飛び出してくるぞ」と訳されているが、The Game is Upとの対比で考えると、「Afoot」は英単語の意味そのまま(in progress / 進行中)と捉えた方がいいのかもしれない。

 「The Game is Up」という挑戦的なひとことにホームズは「必ずお前=真実に辿り着く」と歌う。このミュージカルの主題歌『鎖の一環』だ。
 前のシーンから完全に暗転させることなく本舞台と銀橋にふたつのレイヤーを用いる手法はオーソドックスだがミュージカルとして実に気持ちのいいシーンでもある。
 本舞台にはロンドンの人々、そして主要な登場人物たち、銀橋にはホームズ。そして、ホームズが銀橋中央までやってくると舞台中央には微笑を浮かべるアイリーンの姿が重なって見える。

 この時点でホームズは事件にアイリーンが関与していることを当然知らない。また、観客もアイリーンの「盗み」がホームズの事件に関与していることも当然知らない。

 「必ず真実(お前)に辿り着く」ー
 歌の前半部分でのお前はそのまま真実、そしてジャック・ザ・リッパーの首謀者に繋がる。だが、アイリーンが意味ありげな微笑みをたたえて登場した時点で「お前」にはもうひとつの意味が生まれる。
 この歌詞やシーンがなくとも。観客はヒロインであるアイリーンとホームズがこの事件の舞台で遭遇することを理解できるに違いない。
 だが、このふたつの事件が絡み合う鎖の連なっているということが示されたことで、ストレスなく舞台を観る素地が整う。幕開きから一切かかわりのない主役ふたりが交錯する未来が暗示されたことで、序章が終わったこと、すなわち登場人物が揃ったことを印象付ける。
 実に気持ちのいい場面の切り方である。

 登場人物は揃ったー
 そう前述したばかりだが、まだ登場していない「大物」がいる。
 ホームズのライバル、モリアーティ教授である。

 ホームズを舞台前方に配し、後ろに主要人物を並びたてた後に、どのようにしてもう一人の主役であるモリアーティを印象的に登場させるのかー
 バランスが難しくなったな…そんなことをぼんやり考えていると、本舞台にシルクハットから銀髪をのぞかせた男性がアイリーンとは異なる、だがひどく意味ありげで愉快な微笑を浮かべて現れた。

 恐怖に支配された街、ロンドン。
 そこに似合わぬ僅かながらに狂気を感じさせる微笑ー

 仄暗いロンドンの街を背景に、歌で、メロディで、人数で畳みかけた後、最も効果的に現れたのは芹香斗亜演じるモリアーティ、そのひとだった。

 過日、北原尚彦氏が「シャーロッキアンが語る宙組ホームズ」と題された配信にて「ハゲていないモリアーティ」と評したが。ホームズ自身は彼をこう評する。

 彼はすこぶる背が高く痩せていて、白くカーブを描く突き出た額を持ち、深く窪んだ眼をしている。ひげは綺麗に剃られ、青白く、苦行者のようであり、顔立ちにおよそ教授らしきものを漂わせている。彼の背は長年の研究から曲がり、顔は前へ突き出て、爬虫類のように奇妙に、いつでもゆらゆらと左右に動いている

アーサー・コナン・ドイル「最後の事件」より

 青白くどことなく不健康、ハゲで首の曲がったーそして、ぎょろりとした目が印象的なモリアーティをどのようなビジュアルで再現するのか。ポスターのビジュアルだけでは些か悪の印象が薄いモリアーティがどう変わるのか…

 異質であることをわかりやすく髪の色で表現してきた。宝塚らしい演出だと思う。あくまでも格好良く、魅力的に、ビジュアルを美しくするのは宝塚のセオリーとして。
 モリアーティを青年にするのか、それとも歳を相応に重ねた人物とするのかが気になっていたが、ホームズとあまり変わらぬー20代後半の美しき青年としてきたのはバランスの良さを感じた。

 友人より、芹香斗亜は腹に一物ある悪役が似合うとのレコメンドを受けていたのだが、すらっと美しい肢体に僅かにあどけなさを感じさせる笑顔。その表情の裏に何かあるのではと思わせるものがあり。ビジュアルに同居する青年と少年のアンバランスさがいいスパイスになっていると感じた。
 『アナスタシア』のグレブが当たり役だったというのも頷ける。
 個人的に含みのある演技でゾクゾクさせてくれる役者が好きなので、想像とは異なるモリアーティであったにもかかわらず、すんなりと芹香モリアーティを受け入れるに至った。

 「宝塚だから」というひと言で説明ができてしまうということをご都合主義と感じる方がいるやもしれないが。それこそ、理屈を超越した面白さでもあるのでここは目をつぶって頂ければと思う。
 ポスターにもなっている黒と茶の衣装を身に纏ったモリアーティの青白い顔(だが、それは不健康さを感じさせるものではないのだが)が暗闇に酷く映えるのが一層不気味で。
 脛に傷を持つ人々を言葉で嬲る芹香斗亜の愉悦に浸るその様を見て、モリアーティと思わぬ者はいない。それだけで十分だ。
 

「退屈だ…退屈だ…退屈だ!!」

 所変わって221B-
 10日が経過しようというのに動くことのない事件に暇を持て余し廃人になりかけているホームズは、どうやら日によって様々な「暇人アピール」をしていたらしい。
 私が観劇した際は、アドリブが始まる前からワトスンが笑いをこらえきれず、新聞に顔をうずめるのをよそに、妙に字余りのヴォイス・パーカッションで強烈に暇を猛アピール。
 桜木ワトスンは場面を再開するために発する「いい加減落ち着けよ」のひと言が言い出せず。結果、真風ホームズは随分と長いパーカッションセッションをひとり淡々と続けることとなる。当日の休憩が随分と押していたのは「暇人事件」と無関係ではなさそうだ。
 なお、期せずして2回目の観劇を貸切公演にてすることとなったが、その際は「セディナのC」であった。

 繰り返し演目を観る人が多い宝塚ならではのお遊びポイントとして設けられたアドリブシーンだったかもしれないがホームズの「奇人変人」っぷりを印象付けるのにはなかなかにいい趣向だったのではないだろうか。
 普段はすっくと美しく立つ彼が、ぶつぶつと文句を並びたてながら恵まれた躯体を縮こまらせて座っている絵が何ともおかしい。

 真風ホームズがいじけているシーンのはずなのだが、ここはとにかく目が忙しい。221Bはこの劇中繰り返し出てくるものの、足元にまでしっかりと書物や新聞が積み上がり雑然としたのを観られるのはこのシーンだけなのだ。
 再現度の高い小道具や銃弾で壁にVRの文字を刻み込むなど、シャーロキアンならばにやけが止まらないシーンが続くだろうが、個人的大ヒットだったのはやはり「緋色の研究」である。

 その活躍が表には出ないホームズの名をいつか世間に公表するというワトスンに「余計な脚色をしないかどうか、心配だ」と一刀両断するホームズ。彼の減らず口に一矢報いようとしたワトスンが「真実のままに書いてやる」と歌う『ベイカー・ストリート221B』ー
 これが「緋色の研究」にあるホームズの描写そのままでーその描写に対していちいちロジカルにねじ伏せにくる、ひねくれた、ともすれば幼稚にすら感じられるホームズの姿が微笑ましい歌になっている。
 彼のキャラクター描写のあとには、解決してきた事件が列挙されるように構成されており、主役のホームズの人となりをこのシーンで畳みかけ一挙に固めにくる構成となっている。
 100分で物語を完結させるためのエッセンスが詰め込まれたシーンだ。

 ホームズの居室であるベイカー・ストリート221Bはこの舞台において実にうまく機能している。ホームズという人物に外面を気にするイメージは皆無だが、彼の内面や根幹にかかるシーンはすべて221Bにおいて明かされるようになっているのだ。一部、彼の幻想で表現されるものもあるが、彼が眠っている場所という意味では221Bと言っていいだろう。
 場所に意味を持たせるという大変シンプルな手法で、さもないことであるのだが、情報が多い演劇の中で観客にストレスを与えないという点で配慮が行き届いている。

 ホームズの為人に関連する一通りの説明がアンサンブルも含めコミカルに伝えられたところに、ハドスン夫人が夕刊の束とワトスンの恋人メアリーを連れてやってくる。

 退屈するホームズに活力を与えたのはワトスンとメアリーの結婚報告ではなく、「あの女(ひと)」がロイヤル・イタリアン・オペラの舞台に立つとの新聞広告だった。

 犯罪と謎解きという重く暗いシーンが続きそうな舞台を上手く引き上げるのはホームズにとっての推理同様、宝塚にとっては朝飯前なのかもしれない。
 コヴェントガーデンのオペラハウス、舞台上で華やかに歌う歌手にそれを楽しむ観客たち。これまで暗かったロンドンの街に華やかなエッセンスを加える。いいタイミングで観客が精神的にひと息つけるシーンとなっている。

 コヴェントガーデンにすっとした出で立ちで現れたホームズが前進するのをひるませたのはホームズの兄・マイクロフトであった。
 個人的に、マイクロフトを演じる凛城きらさんはこの作品の演技巧者かつMVPだと思っている。若い女性が演じているわけだが、細かい体の使い方から指先の使い方までちょっと体格が良くなってしまった中年の男性そのものだったのだ。ホームズよりも社会適合性が高い、政府の要職に就いている人物というのが実に自然に表現されていた。

 そんなホームズたちを眺める人影はどす黒い血の色で装飾があしらわれた美しさよりもおどろしさを覚える燕尾服に見事な銀髪が映える。背景がシンプルなればこそ、一層引き立ち、恐ろしく見える彼はモリアーティその人だ。
 「今夜は役者が揃っているー」

 ホームズとモリアーティを前に、今宵の主役ーあの女、ことアイリーン・アドラーが舞台に立つ。にぎやかな舞台と観客のさざめきが遠のくと舞台にはホームズとアイリーンだけが残される。
 ベルベットカラーの劇場のカーテンに真っ白なドレスのアイリーンと黒のタキシード姿のホームズは美しかった。

 そして、幕が開いてからどうしてもぬぐえなかった違和感がなんであるかが判然としたのはこのシーンだった。
 ホームズとアイリーンがそれぞれに歌ったのだ。
 「3年前 春 3月」とー

 「ボヘミアの醜聞」が発生したのは1888年3月。1887年5月に発生したとの説もあるが、明確に3月と言っている以上、1888年説になるだろう。
 その3年後、すなわち舞台は1891年ということになる。切り裂きジャック事件と言われる11件の最後の事件が1891年ではあるので、そう考えれば時系列は合致する。
 ただ切り裂きジャック「5番目の事件」が発生したタイミングを考えると1888年末の出来事と考えることができ。
 聊かの気持ち悪さーいや、居心地の悪さを感じてしまったのだ。

 ホームズが舞台冒頭、レストレード警部に対し「この2カ月余り、ロンドン市民を恐怖のどん底に叩き落してきた『切り裂きジャック』」と語った言葉を素直に受け取っていたので、1888年6-7月が物語の起点であると無意識に信じ込んでいたのだ。

 所謂「ネタバレ」が嫌いな私は公式サイト含め、徹底的にネタバレを回避する。既知の作品についてはそこまでではないが、オリジナルの作品については初めて自分が生で観る衝撃を劇場で受け止めることを大切にしたいし、推理モノであるならばその傾向がより顕著である。
 観劇後、購入した脚本(ル・サンク)を読み、生田先生が意図した時代背景を理解したが、この前提を理解した上で観劇したかった。

 ホームズシリーズにはパスティーシュが多いし、前提条件が整理されているならばそれでいいと思ってもいる。
 ただ、頭の中にある時系列が前触れなく歪められてしまうという点については、ひとことメンションがあると親切だったかなという点は気になる。
 特に、宝塚では年代が幕に投影されるケースも多くー例えば、フランス革命期の話だと"178X in Paris(革命の何年前からストーリーが始まるのか)"といった具合にスクリーンに文字が現れるケースがあるので、余計にそう感じてしまったのかもしれない。
 誰しもがパンフレットや脚本、公式サイトに目を通してから観劇するわけではないという点で、その1点だけは注文を付けたい。
 なお、この話を友人にしたところ「それが気になるのはシャーロキアンかリッパロロジストくらい」と一刀両断されたことは付け加えておく。

 表舞台で視線を交わしながらふたりの出会いである「ボヘミアの醜聞」のストーリーを聴かせてみせる演出はたまらないものがあった。
 終演後のアイリーンの楽屋をホームズが訪ねるが、そこの含みある会話の背景を大いに想像させる歌だった。

 そして、ホームズが退出した楽屋にモリアーティが現れる。
 ここにきて、彼の異質ともいえる燕尾服の意味を理解した。

 正統派の黒の燕尾服を着こなす真風ホームズと真っ白なドレス姿の潤アイリーンには相容れないものがある。
 だが、黒地をベースとしながらも濃い赤が炎のように這う芹香モリアーティが白の潤アイリーンの隣に立つと。モリアーティのねっとりとした視線とともにアイリーンの白のドレスが濃い赤の炎に侵食されるような効果を生み出しているのだ。
 また、袂を分かったかつての仲間という事実を前にすれば、アイリーンの金髪とモリアーティの銀髪というひどく目立つふたりの髪の色までも意味を持ってくるのが面白い。
 パズルのピースがはまっていく心地よさを再び感じながら、アイリーンとともに観客はモリアーティの地下の武器工場へと歩を進めることになる。

 『ベイカー・ストリート221B』がホームズの為人を語るシーンであったのに対し、地下武器工場で歌われる『The Power of Terror』はモリアーティの歪んだ世界観・思考を観客に明示するシーンとなっている。
 3人の部下の紹介し、地下武器工場がロンドンの犯罪ネットワークの中心地であることをアイリーンに告げると、モリアーティは「人類最大の罪は何か」と尋ねる。
 観客はアイリーンを通じてモリアーティの狂気に触れる。

 そして、モリアーティは歌う。
 「繋いだ鎖は断ち切れない 絡み合う鎖に縛られて
 ホームズが本舞台に微笑を浮かべて立つアイリーンを背に『鎖の一環』を歌い、モリアーティは恐怖に怯えながらも必死に立つアイリーンを目の前に『The Power of Terror』を歌う。

 アイリーンを介し、鎖は繋がったー
 生田先生が公演概要において示した「トライアングル・インフェルノ」というインプレッシブなワードが、そこに存在しないホームズを観客に思い起こさせる。見えなかったトライアングルが浮かび上がる感覚に、背中に震えが走った。

 この鎖を最初にひくのはホームズかモリアーティかー
 それともアイリーン自身なのか。
 予測はできずとも結末に至るまでの構図がはっきりと見えるとともに、様々な結末が頭の中で一気に駆け巡った。それは不思議な感覚で、舞台を俯瞰している観客が瞬時にホームズ、モリアーティ、アイリーンの3者の立場を体感するようなものだった。

 アイリーンを連れ、自室へと戻ってきたモリアーティの元に予期せぬ来客ーホームズがいた。
 ホームズはモリアーティの部屋に先回りした推理を披露し、自然にそして有無を言わさぬ態度でアイリーンを奪還する。アイリーンを介して描かれていたライバル二人が明確な形で対峙する。
 こうして文章にしてみると、実に無理なく物語が紡がれていることに再度感心させられる。

 宝塚の芝居において外せない要素のひとつに「恋愛模様」がある。
 恋愛は芝居に必須ではないとの意見を持つ私なので、宝塚において時に起こる「無理やりにねじ込まれた恋愛ストーリー」に対してはかなり辛口である。

 この問題を「シャーロック・ホームズ」という作品はどう処理をしていくのか。というのも、ホームズという人物に抱くイメージがアセクシュアルであったからだ。
 アイリーンに対する感情も恋愛というよりは己の裏をかいた人に対する歪んだ尊敬と自戒の念のように思えてならなかったからだ。
 他方のアイリーンも原作においてホームズに対する恋愛感情があるわけではないので、話を広げようがないのだ。

 パスティーシュならではのこの「難問」に宝塚版ホームズが出した答えは、モリアーティとアイリーンが恋人であったというものだった。
 「ボヘミアの醜聞」はモリアーティから逃げようとしたアイリーンが画策した「事件」であると。

 宝塚版ホームズで私が唯一咀嚼しきれなかったのは「ホームズ恋愛問題」だった。
 モリアーティの手中からアイリーンを助け出したのは紛れもなくホームズだった。吊り橋効果があったとはいえ、アイリーンがホームズに恋愛感情を持ったのだろうか。それとも3年前の事件の時に、彼に淡い思いを抱くような何かがあっただろうかーふたつの問いに対する答えは共に「否」だ。

 「偽りと偽りの間で」「生きてきた」アイリーンが求めていたのはあくまでも「居場所」であったからだ。もちろん居場所とは物理的な意味だけではない。出自、そして過去を振り返るアイリーンの歌から見えたのは「存在意義」を自問自答する脆い精神を持った少女の姿であった。
 この時点において「自分が自分として存在できる場所」=ホームズの隣というようにはどうにも思えなかったのだ。

 モリアーティから狙われる理由を告白し助けを求めるアイリーンは「私を信じられないの」と尋ねる。ホームズの答えは正論そのものだった。
 「君はかつて、モリアーティの仲間で恋人同士だったんだろう」
 ここから恋愛感情に結びつくものを見出すことが私にはできなかった。
 強いてあげるならば「君はかつて、モリアーティの仲間だったんだろう」ではなく、そこにあえて「恋人同士だった」と付け加えたところに恋愛感情の萌芽があったのかもしれない。

 アイリーンが走り去った後、ホームズは嘗ての恋人・フォークナー嬢に思いを馳せる。この時点において、自分の所為で亡くなった恋人に思いを寄せるということは、アイリーンに対しホームズがフォークナー嬢に抱いていた感情に似た何かを持っていたということになる。
 この僅かばかりの引っかかりがほんの少し掘り下げられ、昇華されていたならば。とらえどころのないホームズという人間の心理が多面的に表現され一層面白い作品になっていただろうと思う。

 アイリーンが海軍大佐から働いた盗みー潜水艦・Dreadnoughtの設計図がなくなったことが遂にヴィクトリア女王の知るところになる。
 実際の女王がホームズのファンだったというエピソードに則り、ホームズへ調査依頼をするあたり、茶目っ気のある人間味豊かな女王像が垣間見える。

 ただ、ハノーヴァー朝のヴィクトリア女王といえば、エリザベス2世が現れるまで圧倒的な在位期間を誇った人物だった。「短気で我儘」であったという女王を短い出番で瀬戸花さんは上手に表現したと思うが、人の上に50年間立ってきた者の存在感というものが薄かったのはもったいなかった。
 いくら役者が舞台の上では赤ちゃんから年寄りまで演じることができると言っても。そこにはある程度の経験や人生を生きてきたからの重みが必要だ。娘役は男役より在団期間が短いのは理解するが、歳を重ねた役を魅力的に演じられる役者が大切にされて欲しいとも思うシーンだった。

 女王が去った舞台が一瞬でモリアーティが支配する恐怖の街へと塗り替えられる。逃れたアイリーンを炙り出すため、ロンドンを恐怖に陥れるモリアーティの本領発揮である。
 犯罪の宝庫となったロンドンの街に、再び「切り裂きジャック」が現れる。犯罪の構図を理解しているホームズと、散発的に起きる事件の正体を理解していないレストレード警部の会話はかみ合わない。

 そんなホームズの元に手紙が届く。
 「探し物は見つかったかい」
 差出人はローラ・フォークナー。今は亡き彼の恋人の名を語るのはモリアーティだー

 幻想の中、対峙するホームズとモリアーティ。
 モリアーティはホームズの精神的に弱い部分にナイフを突き立て、ホームズから冷静さという最大の武器を奪おうとする。
 ホームズの周りに現れる幻影は彼の身近な人間ばかりーその彼らをモリアーティは鎖で縛り、ホームズを精神的に拘束していく。
 ローラを亡くした過去に無意識にとらわれるホームズに「次はアイリーンだ」とモリアーティが暗示したところで、ホームズは目が覚めるー


 ここから先にもコメントをしたいポイントはあるのだが、対決の全容をモリアーティが仕掛けた罠とそれに応戦するホームズの戦いは是非、ご自身で観て頂きたい。
 千秋楽が終わり、自身の整理がついたならば感想としてアップしたいと思っている。

 ただ、ひとつお伝えしたいのは、100分に凝縮された3人の物語は濃密で、見ごたえがあるということ。そして、どちらかと言えば宝塚ファンよりも一般のミュージカルのファンやシャーロキアンに観てもらいたい内容となっていることだ。
 個々に言及しきれなかったがモリアーティの3人の部下やホームズに振り回される周囲の人間など、魅力的な登場人物が沢山いるので是非そこにも注目して頂きたい。

 また、前述の通り、宝塚を初めて見る人に勧める際、いつも悩むのが「ショー」の存在なのだが、今回の『Délicieux(デリシュー)!-甘美なる巴里-』は、初めて見る方にお勧めできる演目だと思っている。

 宝塚の魅力のひとつは、馴染みのある音楽のアレンジ力の高さにあると思う。Délicieuxはクラシックやオペラ、ミュージカル、シャンソンなど、曲名を知らずとも聴いたことがある音楽を大胆に心地よくつなぎ合わせたており、迫力ある群舞も多いショーとなっている。
 冒頭に触れたとおり、何も知らない状態で観るショーは苦痛になることがあると思っている。馴染みの曲が多ければ、ダンスや衣装、照明など楽しむ余裕が生まれるのではないかと思う。
 シャーロック・ホームズの登場人物たちが歌に踊りに全く異なる魅力を振りまいているので、「●●役の人がこんなこと?」といった楽しみ方をすることもできるだろう。

 公演の映像をのぞき見したい方は宝塚大劇場の初日映像が有るので、是非舞台に生きるホームズたちを見て頂きたい。

 また、ネタバレはあるが、ホームズをご存じの方で時間があるならば、北原尚彦氏の「シャーロッキアンが語る宙組ホームズ」をご覧頂いてから配信を見ることをお勧めしたい。

 配信は楽天テレビ、もしくはU-NEXTで3,500円となっている。
 9/26 (日) 13:30開演。
 終演後には退団する生徒の挨拶もあるので、少々長くなるが、本編を楽しむだけならば3時間である。
 なお、比較した感想は、U-NEXTの方が画質も音質もお勧めであるが、PCのスペックと相談の上、判断していただければと思う。


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