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ループライン#16

【桜台駅】…………Nao Kobayashi(4)

 図書室に戻ると、机にいた何人かは別の人に変わっていた。長く空席にしてしまって申し訳なくなる。常連さんの老婦人はまだ元の席に座っていて、菜緒に気付くと少し心配そうにこちらを見つめてきた。席を離れてから随分時間が経っていたし、それに目も、少しは冷やしたもののまだ赤く腫れぼったいままだからだろう。

 ――だけど。

 気持ちは信じられないくらいスッキリしていた。話を聞いて貰ったことと大泣きしたことで、胸の内に溜まっていた悪いものが身体の外に出て行ったみたいだ。
 菜緒は泣きはらした目のままニッコリと彼女に笑いかけ、声には出さずに『大丈夫』と口パクしてみせた。いつもは会釈程度しか交わさないからか、老婦人は軽く目を瞠り、それから大きく頷いた。とても嬉しそうに。

 ああ、繋がっている――と、ここでも感じられた。ふわりと浮き立つ心地。

 占拠したままだった机の上を手早く片付けて、結局追加はせずに二冊だけ貸出手続きを受ける。老婦人にいつもよりしっかりと挨拶の会釈をした菜緒は、荷物を持ってセンターを後にした。
 大分陽は傾いていたけれど、夏の午後は長い。蝉の大合唱もまだまだ絶好調だ。行きはげんなり歩いてきた道を、『あー、あっついわねー!』と声に出しながらサクサク歩く。
 ふと目線を上げると、高架の上を空飛ぶモグラのようにモノレールが走っていくのが見えた。菜緒のマンションがある桜台駅から隣の中央公園駅へ向かうモノレールは、段々と高度を上げるのだ。高架の下に広がる公園をずんぐりとした影が行く。空を目指して行くようなモノレールの姿に、菜緒の心も更に上向く気がした。

 ――よーし、善は急げ、よね。

 木陰に立ち止まってトートバッグの中からスマートフォンを取り出す。強い日差しで見えにくい画面に苦戦しながら、菜緒は夫宛てのメッセージを作成し始めた。短い一言を送信してバッグにしまおうとすると、間を置かずにスマートフォンが震えた。

 ――今日早く帰れる?
 ――えっと、頑張る。大丈夫? 何かあった?
 ――すっごく面白いことがあったから、礼くんに話したくて
 ――何だか菜緒ちゃんご機嫌だね。気になるなあ!
 ――今話したら礼くん会社で吹き出しちゃうかもしれないわ
 ――余計気になる(笑) 絶対早く帰るよ
 ――うん。待ってるね

 こんな他愛もないやり取りさえ、結婚してから減っていたかもしれない。距離が近くなった分、寄りかかり過ぎて負担にならないようにと変に意識してしまっていた。新婚だというのに馬鹿みたいだ。勿体無い。

『菜緒ちゃんの笑い声って心地いいよね。何だか元気が出るよ』

 強く胸を打った帽子の男性の言葉。最初にくれたのは他でもない、この人だったのに。
 自分がすべきだったのは顔色を伺って遠慮することじゃなく、ささやかな事でも心から笑い合って、安らぎを分かち合うことだったのに。

「二ヶ月で気付けて、良かったわよね」

 今までの……ここ最近の自分なら、二ヶ月を惜しんで悔やんだことだろう。それがこんな風に自然と思えるなんて。

「さてと。礼くん頑張るって言ってたし、私も今日のお夕飯、頑張っちゃおうかしらね」

 夫の好物を頭の中で並べながら、菜緒はそっと心に決める。
 美味しいものを一緒に食べて、おかしな話で一緒に笑って、そして飲み込んでいた『ちょっと聞いてくれる?』を伝えよう。ご近所さん達と仲良く付き合っていくための作戦を、夫婦一緒に練るのだ。だって私達は家族なんだから。それは一人で頭を抱えていた時とは真逆の、楽しいことのように思えた。

 ――そうよね。方法は色々あるはずだわ。

 いきなり一対大勢だと難しいなら、ちゃんと相手に事情を説明する。そして例えばお隣さんなりから距離を縮めて、気の置けない相手を増やしていけばいい。ゆっくりと、しっかりと。何なら始めのうちは奥様会ではなく、旦那さんやお子さんも含めてご近所家族パーティーもいい。夫がいてくれるなら、きっと自分も大丈夫。

 ――誘拐犯(違ったけれど)に果敢に挑めた私だもの。

 思わずふふっと声に出して笑ってしまい、菜緒は一人で恥じらった。スマートフォンを今度こそバッグにしまうと、カツン、と小さな音がした。
 このテンションをずっと保ち続けるのは難しいかもしれない。 ……でも、いいのだ。浮き沈みがあるのは自然なことだから。とにかく今、この瞬間浮かれて妙に前向きな自分が、菜緒は割と好きだ。

 トートバッグの底では、ボコボコに傷のついた細長い缶が、弾ける笑い声を待ち焦がれるように静かに横たわっていた。



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■2020.12.22 初出

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