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ループライン#26

【スカイプラザ駅】…………Shuu Negishi(1)

「それじゃあ、わたしは先に行っていますから」
「ああ。電話は持ったかい?」
「一番最初に鞄に入れましたわ。あなたも忘れないでくださいね」

 玄関先で靴を履いている妻にマフラーを手渡しながら、根岸(ねぎし)楸(しゅう)は居間を振り返った。確か携帯電話は電気ケトルの傍らで充電中だったはずだ。大丈夫、大丈夫。

 妻の椿(つばき)とは近所でも評判の仲良し夫婦だ。のんきな楸と穏やかな椿は、結婚してかれこれ四十数年、ほとんど喧嘩らしい喧嘩をしたことがない。歩調の合う連れ合いに巡り会えたことは、良くも悪くも平坦な楸の人生の中でとても大きな幸運だ。
 妻の名前は木ヘンに春。自分はというと木ヘンに秋。親が好きだった俳人、加藤楸邨(しゅうそん)から一字貰って名付けられたのだが、簡単ながらもあまり見慣れぬ漢字だけに、読み方を尋ねられることも少なくなかった。嫌いではないが面倒に思うこともあった自分の名前。それが好きになれたのは妻のおかげだ。若い時分には運命を感じて一人密かに胸を躍らせたりもしたものだが……それは今でも妻には内緒。
 そんなくすぐったい幸せを日々噛み締めつつ、今日は月に一度の映画デートに出掛ける。シニアカップル割引きの適用年齢になって以来の恒例イベントだった。 お互いいつもより少しだけおしゃれをして、別々に家を出て映画館で待ち合わせ。どの作品を観るかは劇場に着いてから二人で相談する。シネコンだから色々選べて楽しいし、最近の若い人は事前にインターネットでチケットを購入していたりするから、少しくらいあれこれ迷っても、チケット購入の列から外れていればロビーでそんなに邪魔にならないで済む。まあ今日のように平日の午後なら元々混んだりはしないのだけれど。これが都内や大きな街ならまた事情が違うのかもしれない。色々とちょうどいい、我が町だ。

「さてと、私も準備をするか」

 椿は図書館――主に地域の交流センターにある図書室に通うのが趣味で、今日も本の返却に寄るらしい。モノレールは一度途中下車することになるが、回数券を買っているからそんなに気にならない。彼女がそうして用事を済ませている間、楸はというとショッピングセンターで買い物をしようと思っていた。

「気に入る品が見つかるといいなあ」

 買いたいのはプレゼントだ。ホワイトデーを来週に控えている身としては、早く用意しておかないとどうにも落ち着かない。贈り物を選ぶのは好きだけれど、キラキラと浮き足立つ特設コーナーにはどうにも気恥ずかしさを感じてしまう。

 ――ホワイトデーのプレゼントコーナーに居る男性陣は、大体が同じような心持ちだろうがね。

 例年の光景を思い出して可笑しくなる。誰もが少し照れくさそうに、でもそれぞれ真剣に品物を吟味しているのは、何とも心温まる光景だと言えよう。
 自分もその光景に加わるべく、楸は携帯電話を取りに向かった。 


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■2021.03.23 初出


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