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ループライン#31

【スカイプラザ駅】…………Shuu Negishi(6)

 病院にやってきた楸を出迎えたのは、予想に反して楽しげな妻の顔だった。妻自身に何もなかったとはいえ、付き添ってきたからにはもう少し表情が曇っていたりするかと思っていたのだけれど。

「楸さん! すみませんね、来ていただいて」 
「いやそれはいいんだが。結局どういうことなんだい?」

 出入り口で立ち話をしていても邪魔になるので、隣接している小さな公園に移動してくる。空いているベンチに並んで腰掛け、事の次第を聞いた。

「実はですね、図書室通いのお友達――例のお嬢さんなんですけど」

 その女性の話は前から時折聞いていた。とても読書好きのお嬢さんで、結婚を機にこの街に引っ越してきた子だったはずだ。

「今日も図書室で会ったんですけれど、少し顔色が悪かったんですよ」

 妻曰く、彼女は来室した段階で若干危うげな足取りだったそうだ。いつもは私語は慎んで軽く会釈を交わしたりするだけなのだけれど、心配になった椿は彼女の隣の席にさりげなく移動して、様子を見て彼女を図書室の外へ連れ出した。

『花粉症の薬が合わないみたいで……』

 ぼんやりした女性は微熱もあるようだった。来る途中でだんだん体調が悪くなり、とりあえず近くまで来ていたから図書室で身体を休めようと思ったのだという。
 大丈夫だからと尻込みする彼女を説き伏せて、タクシーに押し込み病院に連れてきた椿には、同じ女性ならではの直感があったのだろうか? 妙な確信を持っていたらしい。

「放っておけなくて……お節介だということは重々承知だったんですけれどね」

 普段は大人しく控えめな椿だが、ここぞという時の決断力と行動力は昔から変わらない。このギャップも、楸にとっては椿の魅力の一つだった。

「ここが掛かりつけの病院だということでしたので、まずは慣れたところの方が余計な不安を煽らないと思いましたの」

 『だって人生でただ一度、最初で最後の瞬間ですよ!』と妻は目を輝かせる。

「それはつまり……」
「根岸さーんっ!」

 核心に迫りそうになったその時、涼やかな声が名を呼んだ。二人揃って声の主を振り返れば、頬を染めたお嬢さんがこちらにやってくるところだった。

「お待たせしました。やっとお会計が済みました」

 明るい表情で肩をすくめた女性が、楸と目が合うと慌てて居住まいを正す。

「あ、根岸さんの旦那さんですか? はじめまして! 今日は奥様にすっかりお世話になってしまって……って、ああ私ったら、ちゃんと自己紹介もしないで」

 ワタワタと早口で喋る女性からは、抑えきれない興奮が伝わってきた。微笑ましい気持ちになって、楸は挨拶に差し出された白い手を深い想いを込めて握った。

「はじめまして、椿の夫の根岸楸といいます。――この度は、おめでとうございます」

 女性の顔が喜びにほころぶ。
 それを見て、楸は自分の左手にある紙袋の中身を思い起こした。咲き誇るブーケの花々に少しも負けない、とても瑞々しく綺麗な笑顔だった。

 妊婦を乗せたタクシーを見送り、老夫婦はゆっくり駅に向かって歩き始めた。目指すは本日四度目のモノレール。

「何だか凄く濃い一日になりましたわね」
「そうだなあ。映画の予定はダメになってしまったが」
「あら、日を改めれば何の問題もありませんわ」

 妻はニコニコ満面の笑みだ。

「そうなんだがね。今日の……というか、今月のデートは、ちょっとだけ特別なものにしたかったんだよ」

 『え?』と椿が問い返そうとするのに被せるように、楸は紙袋に手を入れた。覗き込んでくる妻の目の前に少し早めの、小さな爛漫の春を取り出して見せる。

「ややフライングだが、来週ホワイトデーだろう?」

 いくつになってもこういう場面は面映ゆい。
 鞄の中から忘れずに、菜の花色の包みも出して手渡した。花束とお菓子を手に幸せそうに目を細める椿が、立ち止まっていた足を再び動かし始めるのについて行く。

「ありがとう。とっても綺麗ね。嬉しいですわ」

 それにいい香り、と椿は深呼吸を繰り返している。やっぱり花はプレゼントの王道だ、と楸は心の中で感嘆した。

「ねえあなた?」

 呼びかけられて振り向けば、妻はどこか可笑しそうにしている。疑問符を浮かべつつ『うん?』と返す。

「映画の仕切り直し、明日にしましょうか」
「明日? 別に構わないけども、また随分急ぐね」
「これから映画を観て、夕御飯を食べて帰るのもいいですけれど、あなたも疲れたでしょうし……お花も早く花瓶に生けてあげたいですからね」

 花束を目の高さまで掲げてみせる。

「それに、明日出掛ける用事も出来ましたでしょう?」
「私にかい?」
「ええ」

 明日は特に予定もなかったはずだ。頭の中でスケジュール帳をめくりながらはて、と思っていると、紙袋を渡して手持ち無沙汰になっていた左腕に、触れる程度に腕を絡められた。

「電話の修理に行かないといけないでしょう? 今日は肝が冷えましたから、とりあえず明日は一緒に出掛けましょうね。今日お世話になった方へのお礼と、初めてお母さんになる彼女へのお祝いなんかを選んだりもしましょうよ」

 指折り予定を立てる椿は物凄く楽しそうだ。人好きな彼女らしい。一つ一つ丁寧に相槌を打ちながら、楸は密かに笑った。何十年経とうと、彼女はやっぱりとても素敵だ。

 その一方で改めて実感する。

 人と人との繋がり方には色々な形があるものだ。時代と共に便利になったり、それがかえってアダになったり。しかしどんな形でも、持ちつ持たれつなのは変わらない。何気なく声をかけた相手に、思いもよらないタイミングで助けられたりする。
 年を取って頻繁に色々な人と会う機会が減ったからこそ、縁を大切にしたいと思う。同じ思いでいるであろう、妻と一緒に。

 ――今日ぶつかった彼にだって、もしかしたらまた会うことがあるかもしれないな。

 そんなことを想像しながら空を仰いだ。
 薄い水色の空を、一羽のツバメが横切っていった。


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■2021.04.27 初出

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