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私の群れよりはなれて

本で自己ハーディングという語に行き当たった。過去の自分が複数回とってきた行動・考え方が自分の中に固着し、「自分はこういう性格で、こういう動き方をする人間である」という自己認識に至ることを指す語らしい。
要は「習慣が性格や自己認知を作る」的な話か?と思いつつ、”ハーディング”という言葉の意味が気になって調べてみた。

ハーディングというのも心理の用語で、要は集団への同調現象のことだ。AとBのいずれが良さそうかを決める会議で、複数名がAを支持していると、あたかもそれだけでAが良さそうに見えてくる/Aの指示に同調したくなる、という現象のことを指す言葉らしく、元になったherdingという英単語の元々の意味は「群れを作る」だった。

みんなの意見に同調して群れを作るという意味の「ハーディング」という語がまずあり、それを下敷きに「自己ハーディング」の語ができているという流れを踏まえると「自分」や「アイデンティティ」についてユーモラスなイメージが湧く。
つまり、心の中に野原があって、そこには「過去の自分たち」という複数の羊と、「今の自分」という一匹の羊がいる。過去の羊たちは往々にして大小の群れを作っていて、今の羊はその群れに加わろうかとウロウロしている。今の羊が過去の羊の群れに合流すると、本来いるべき群れに迎えられたかのような安心感を覚える。
そんな野原と羊の風景が、語の成り立ちから辿っていた「自己ハーディング」という現象のイメージだ。

羊の群れとして自分をとらえることに不思議な新鮮さを覚えるとすれば、自己を「過去から今まで続いてきた同一の存在」ととらえていないからかもしれない。むしろ「〇月×日の自分」「△月□日の自分」「あの時の自分」を、それぞれ別々の輪郭を持った羊に分けてしまった上で、「今この瞬間の羊」は、過去の羊たちとどう関係するか?に照明をあてている。

やや余談。「自立した個人vs群衆」という文脈での対比がされがちな「群れ」という言葉だけど、ある意味「個体」へスポットライトを当てている表現でもあるなと気づいた。
アイデンティティをすごく単純に表現すると「過去から今までずっと連続している一つの私」(①)だが、羊の群れに例えると「『過去あるときこうであった私』の集合体としての私」(②)になり、①よりもむしろ個体や輪郭の数は増えている。

輪郭を持った個体が独立しているーー輪郭をもった個体が寄り集まっている(=群れ、②)ーー輪郭を持たない全体がある(①)

というグラデーションがあるとしたとき、「群れ」という表現には「自立した個人vs群衆」という文脈が持つ「個が立っていない」というニュアンスも、「一つの全体として大括りにするのではなく、複数の輪郭を認めている」という文脈が持つ「個が立っている」というニュアンスも両方ある気がしている。


さて、自己ハーディング、すなわち過去の羊に寄り添って、半分自動思考的に今の羊の行動・考え方を決めてしまうことは、安直な生き方・自己が立っていない生き方なのだろうか?
元々の「ハーディング」、つまり「他人の多数意見に従って自分の意見を決めてしまうこと」が良きことか?と問われたらNoという人が多そうだ。
しかし、同調する対象が過去の自分である場合、その行為は「自分を持っている主体的な振る舞い」「自分を持っていない安易な振る舞い」のどちらのラベルを張られるのだろうか?

ある意味、今この瞬間の自分が、過去の自分に寄り添う選択をとること、つまり、今の羊が過去の羊たちに加わって群れを強くすることはとてもアイデンティティに適う振る舞いに思える
過去の自分に加わるなんて、自分を持っていない!主体性が足りない!というような意見はさすがに厳しすぎる気がする。
そもそも「過去の自分たちから離れて、独立独歩している今の自分」とはどこから生まれてくるんだろうか?本当にそんなものが存在しえるだろうか?

過去の群れから離れ、「今この瞬間の羊」のオリジナリティを作り、主体性らしきものが産まれる源泉があるとしたらそれは何だろう?

いま手近に思いつく限りだと、その瞬間瞬間に置かれた身の回りの出来事・環境をどれだけ真摯に読み解いて反応するか、だと思う。
毎日同じことは起こらない。今日は必ず過去とは違うことが起こる。物理的には起こっている。
身の回りでは色々なことが起こり、色々な人と接し、言葉を交わすなかで、その外部の物事を咀嚼して今の振る舞いを考える。
その過程で「これは」と感じたら、躊躇なく過去の羊とは違う行動をとる。
そのプロセスは、半自動的に過去の羊の群れに加わることより、今の羊の個と主体性が立っている、と思える。

そうであるとするなら、私(=今の羊)にオリジナリティをもたらし、その輪郭を強くしてくれるのは、過去の私よりも、むしろ他者の存在/他人との時時刻刻の関りということになる。


ティム・インゴルドという著者が書いた人類学の本に「他者と真剣に向き合うとはどういうことか?」という一説があった。
人類学者がフィールドワークをする中で、調査対象の民族をどれだけ克明に記録しても、どれだけ詳細にインタビューをしたとしても、それは他者に真剣に向き合ったことにはなっていないという。
インゴルドいわく「他者と真剣に向き合う」とは、他者が自分に投げかけてくる世界観の揺さぶり・思考変化のパワーを真剣に受け取ることであり、「目の前にいるこの他人によって、自分が不可逆的に変えられてしまうかもしれない」という覚悟をもって接することだと書かれていた。
ある意味それは、自分自身のアイデンティティをどこまでオープンに柔らかくとらえているか?という問いかけにも通じる。

自己ハーディングのイメージでは、自己を立たせようとする動きが他者を求める動きに転倒し、インゴルドの主張では、他者の受け取り方が自己への受け取り方に転倒している。


「私」と「あなた」それぞれの群れの間にある緩衝地帯で、それぞれのはぐれ羊がであうとき、私のアイデンティティに関する出来事が起こっているのだろうか?他者の受け取り方に関する出来事が起こっているのだろうか?




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