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自由 vs. 平等

(内田樹さん 講演会:市民社会とコモンから)

自由と平等って、さらっと書いてあるから並列的な概念と思うかも知れませんが、違いますよ。自由と平等って矛盾するんです。トレードオフなんです。

自由を追求すると、平等は実現できない。
平等を追求すると、自由は実現できないんです。

自由、平等、博愛という原理のもとに近代市民社会は成り立っていて、デモクラシーとはそういうものだってさらっと思っている。けれども、実は自由と平等って矛盾するんです。デモクラシーって18世紀に言い始めてからなんだかんだで300年経っているのに未だに安定しない。その理由は、実は自由と平等って食い合わせが悪いんです。

平等というのは公権力に巨大な権限を与えて、強者の持ち物をとってきて弱者に再分配するという仕組みを取らない限り実現しないんです。ほうっておいてみんなで勝手に頑張ってくれっていっても絶対に平等は実現しない。必ず格差が生まれます。強者が勝ち、強者が総取りすることに必ずなる。そのためには公権力が市民の自由に介入せざるを得ない。弱者を守るために強者の自由を抑制することになる。

リバタリアン(自由至上主義)とは、格差や優劣や勝敗が社会にはっきりとでるのは、自由競争の末の自由な生き方の帰結だとみる。だからそこに公権力が介入し一生懸命努力して得たものを税金で巻き上げていくのは市民的な自由の制約であり権力の介入だと考えます。つまり、リバタリアンは自由を求めているわけではなく、平等に反対しているんです。

逆にその対極にあるコミュニタリアン(共同体主義)というのは、共同体に軸足をおく人たちのことを言いますが、彼らが共同体に軸足を置く理由は、そうしないと平等が実現できないからです。

自由なのか平等なのかどっちの統治原理に軸足を置くかで、リバタリアンなのかコミュニタリアンになるのかが決まってきますが、どっちを取るかというのは、個人の選択なんです。

自由がいいか、平等がいいか。



その自由と平等の緊張感の中でデモクラシーは存在しているのです。

また、デモクラシーは統治者として不適切な人が選ばれてしまうリスクを常に抱えています。でも、それがまさに民主制が実現されているということです。だからずっと監視してしっかり見張ってなきゃいけない。権限を持つと悪いことをするから、なるべく持たせないように権力を分散するしくみです。統治機構としてはものすごく非効率なんです。これがデモクラシーのコストです。

デモクラシーとはとても不出来なしくみなんです。不出来な制度をなんとか回していかないといけないから、手間もかかるし管理コストがものすごいかかる。

でも、ひとついいこともあります。ものすごい精密なコントロールを要求するので、大人じゃないと回せないんです。システム自体のほうが懇請してくるわけです。「お願いだから大人になって」と。子供だとデモクラシーは一瞬で終わってしまう。君主制の場合は名君がいれば民衆はみんな子供でいいわけです。でも、民主制はそうはいきません。成熟した市民を一定量の割合で含んでいないと機能しないからです。

デモクラシーは揺らぐのが当たり前、食い合わせの悪い自由と平等の統治原理をなんとかして組み合わせようとしているのですから、これで万事OKという最終ソリューションがあるわけではありません。その都度ゆらぐわけです。その都度自由と平等を按分しながら最適解を「自力で」考えていかなければいけないんです。

noteにまとめるには内容が濃すぎたのでだいぶ要約しています。ぜひお時間のあるときに引用元のリンクを参照してみてください。

純粋な自由ってたぶんなくって、自由って突き詰めていくとどこかを堺に自分勝手になるじゃないですか?そこに境界線を引くものはなんだろう。書くにあたって色々参考を漁っているうちに樹先生の「自由」と「平等」を同じテーブルで語らなければいけない、というより大きな視点に至りました。

自分の言葉で語ろうと原稿は書いたのですが、結局引用になってしまいました。。。

自己責任という言葉を単に「自由を選択した結果として受け止める」のではなく、「自由と平等の塩梅を探るそれぞれの責任」として捉えると、わたしたちが暮らす民主主義というしくみのひとつの歯車として、わたしたちにその選択をする覚悟がどこまであるのか?身の引き締まる思いがします。

いま時代が大きく変わる転換期にあって、敵味方、善悪、正誤、良し悪し、誰もが白黒ハッキリするシンプルな最適解をイメージすることは難しい。そしてなによりその答えには、民主主義というとても非効率なしくみのもと民主で、つまりそれぞれの「自力」でたどり着かなければいけない。

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生殺与奪の権を他人に握らせるな!とは、冨岡義勇が炭治郎にいった言葉ですが、なんだかこれは現代の民主主義社会に生きるわれわれ市民に向けられた言葉のようにも感じてしまう。

全てが商品化されあらゆる答えがつぶさに提示される消費社会に暮らしていると、そういったわたしたちの生き死にを左右するような決断ですら他の「誰か」に任せていれば、いい感じの答えがすぐ提示されると簡単に考えてしまいがちです。ところが、わたしたちは民主主義という「わたしたち自身が "大人" にならなければ回らないしくみ」のなかにいます。

りなる



#生殺与奪の権 #民主主義 #自由と平等は矛盾する #デモクラシー

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