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死ぬまでに、をくり返して

近所に大きい本屋がある職場になったせいか、あるいは通勤時間という確実に読書に充てられる時間ができたせいか、ここ数ヶ月は毎月1冊以上は本を買ってしまう。

以前この記事を書いたときと変わらず、積読癖は治らない。毎日通勤時間に読むので消化されてはいるものの、積読タワーは高層ビルになり、とあるシリーズを全巻まとめ買いしたおかげで第2タワーが超スピードで建設されてしまった。歴史的な伝説で一夜にして築城された城があったと思うが、まさにそんな感じである。

とはいえ本を積めるスペースには限りがある。四次元の収納空間でもあればいいが、ここは三次元の世界なのでそうはいかない。どうしたものかと、ある眠れない夜に自分の積読癖を分析してみたのだった。

おそらく私はいつからか「読んでない本がないと落ち着かない」人間になってしまったのではないか。なぜ落ち着かないのか。まだ読んでいない本がそこにあることで「この本を読み切るまでは死んではいけない」と自分に言い聞かせているからだ。聳える積読タワーは、いわば生きる希望なのである。

気になる本を買って、それをいつの日か読むことを楽しみに積んでおく。映画館へ行って予告編を観て、気になる映画があれば公開日をチェックする。公開日はだいたい数ヶ月先なので、それを楽しみに生きる。先行きが不透明な世の中と自分の人生では、そうでもしていないとどうも私は簡単に命を捨ててしまいそうになる。

死ぬまでに行きたいところを考えるのも似たようなものである。

死ぬまでに行きたい、人生で一度は行きたい場所というのはいくつもあるのだが、すぐに行こうとはしない。海外には出にくいご時世柄と、そもそもお金がないからという理由もある。だが、私の思考の根底にあるのは「そこに行ってしまったら、私は満足してもう死んでもいいと思ってしまいそうだから」という理由だ。私は変なところでフットワークが軽かったり、思い切りがよかったり、異常な行動力を発揮したりする。きっと「もういいや」と思ったときの行動は至極早いだろう。

自分のことは自分が一番よくわかっているので予想がつく。一方で、自分のことを一番理解していないのが自分というケースもあるので実際に自分がどう行動するかはわからない。夢見た場所に来られた興奮と目的を達成してしまった喪失感をどう扱うか。次の希望を見つけて帰ってくるか、次を探すことを諦めて、帰りの便のチケットを捨てて日本に帰ってくることすら諦めてしまうかもしれない。

死ぬまでに、読みたい本、観たい映画、行きたい場所、会いたい人、やりたいこと、叶えたい夢。そういうものを自分だけのTo Doリストにまとめてひとつひとつクリアしていく。そうやって人間は一生を過ごし、人生を終えていくんだと思う。映画『最高の人生の見つけ方』みたいに。

ひとつずつクリアしていく達成感はあると思う。夢が叶った瞬間の興奮というものを味わってみたくもある。しかし、ひとつクリアするごとにひとつ死に近づいているような残酷な感触もある。小学生の頃に中学受験のために通っていた塾の先生があるとき「人間は常に死に向かって突き進んでいる」と言っていた(小学生相手になんてことを言っているんだ)。あいみょんだって「なぜ人は減る命に祝いを捧げるの」と歌っている(『19歳になりたくない』より)。

長短はそれぞれあれど、ひとりひとりに与えられた命は増えることはなく、時間と共に減る一方であるということだけは平等な事実だ。そして時間は流れるばかりで止まることはなく、生き物は徐々に老いていくというのも万人に平等だ。時を止める能力というのは残念なことにSF世界でしかありえないし、不老不死の命というのもまたファンタジーの世界にしか存在しない。

加えて、人生は一度きりというのもまた酷な事実である。人は生きる中で知恵を身につけていくが、人生を上手く生きる術を身につけたところでその知恵を持って再び新しい生を受けるということができない。誰もが人生の初心者であるのに、上手くできる人とできない人がいて、できない人に「失敗してもいい」「初めてだから仕方ない」といったことはない。実に厳しい。

厳しい世界の中で、自由に持つことができるのが、夢であり希望である。人がどんな夢を見ようが希望を持とうが、それを否定する人もいるが、実態のないものだからどれだけ頑張っても奪うことはできない。夢をいくつ持とうが、自由なのである。

一般的な人生の模範解答というのはこういう生き方なんだろうなと感じることが多々ある。私もその壁にぶつかって泣きたくなることがある。でも、“最高の人生”は人それぞれ違う。人生のTo Doリストは自分にしか作れないし、そこに何を書こうがどう消化しようが他人に指図される謂れはない。もちろんその裏返しとして、自分も他人の人生を支配することはできないし、干渉してはならない。


……というのが、また積みたい本を見つけてしまったことに対する、長くてまどろっこしくて壮大な私の言い訳である。

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