見出し画像

母校愛

社会人になって数年経つが、私は未だに自分が卒業した中学や高校、大学の動向や部活を追いかけている。大学で一般参加が可能なイベントがあれば積極的に足を運ぶし、予定が合えば学祭にも行く。中高時代の部活の大会があれば知ってる後輩はとっくにいないというのに観に行くし(前回の記事参照)、近くを通るときには遠回りしてでも校舎を眺めに行ってしまう。

中学〜大学までが私の人生の全盛期だったと思っている。だから、いつまでも輝かしい過去に執着し、囚われている……と言っても過言ではない。

そうだ、文字通り私は母校に執着しているのである。なぜなら、私にとって「いつまでも変わらずにそこに存在してくれているもの」すなわち母校しかないからである。

祖父母の家ももちろんあるが、そこは私の親の実家であり、私にとっては実家ではない。転勤族のため実家は移動しているし、両親が住んでいるだけでそこを実家と呼ぶことが私にはしっくりこない。家の勝手はわからないし、度重なる引っ越しで思い出の品はいくらか捨ててきているし、もう社会人ともなると実家に帰る頻度も高くないため自分の部屋はない。かつて私が持っていたものの大半は、すでに失われている。

両親が引っ越しをしたため、私が慣れ親しんだ土地に帰る家はない。そこに旧い友人たちはいるが、家のように強く私を結び止めておいてくれるものはない。

だから、帰る口実になり、私と彼の地を結びつけてくれるのは母校なのだ。学校というのは早々潰れるものでもなく、移転しない限りはそこにある。幸い、私の中学・高校は私立で教師の異動も少ないため、かつての担任はほぼ残っている。さして懐いていた教師はいないのでこのあたりはわりとどうでもいいのだが、慣れ親しんだ場所に見知った顔がいることは「帰ってきた」という実感を増幅させる。

周りの友人たちは人生の歩みを進め、母校などもはや過去の記憶になっている。しかし、私の中では未だに母校の存在が大きい。過去を振り返ってばかりで、過去の栄光に囚われていてかっこ悪いなあと思っていたが、最近こうして冷静に自己を分析してやっと腑に落ちる答えを見つけた。

変わらずそこに存在してくれるものへの執着、これは私という人間の価値観として自然と生じたものであり、抗い難いのは当然だと思う。かっこ悪くはない。それもひっくるめて私という人間を作り上げているのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?