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 小学館は、芦原妃名子さんが亡くなった経緯について説明はしないと公言した。
 どうしてこう次から次へと人々の神経を逆なでするような対応が出てくるのかと、呆れるというよりむしろ感心してしまう。
 今回は、その小学館の各学年学習雑誌で1970年1月号より連載開始された「ドラえもん」を取り上げる。
 雑誌は小学館、放送局は日本テレビと、「セクシー田中さん」と同じである。

【日テレ版ドラえもん】
 今や幻の作品となり、再視聴はほぼ不可能になっている「ドラえもん」の第1作テレビアニメ。
 1979年より現在まで放映されている「ドラえもん」がテレビ朝日であることから、1973年に半年間だけ日本テレビで放映された本作は「日テレ版ドラえもん」と呼ばれている。

 「ドラえもん」のことが小学生の頃の私は超大好きだった。
 もう設定が完璧だと思ったのだ。

 何か事件が起きる。
     ↓
 ドラえもんが解決しようとひみつ道具を出す。
     ↓
 でも、完璧な解決には至らずおかしな結末になる。

 作品のフォーマットは上記で、毎回出てくるひみつ道具に夢があり、とにかくおもしろくてたまらなかった。
 どの道具も魅力的で、「自分の手元に欲しい」と思ったものだ。
 「ドラえもん」は当時小学館の学習雑誌1年生から6年生までの全てに連載されていた。
 私は全誌の「ドラえもん」読みたさに、毎月本屋に行き、各学年誌にかけられている輪ゴムを外し、「ドラえもん」を読み、また輪ゴムを元のようにかける――というとても図々しいことを全学年分やっていた。
 自分の学年以外の学習雑誌は家に無くて読めないわけだから、全学年の「ドラえもん」を読みたければ、当然そういうことになるのである。
 本屋さんにはさぞ迷惑な子どもだったろう。
 当時は書店の立ち読みがフリーだったから、どの書店も立ち読み客であふれていた。
 立ち読みされると本がいたむ。
 書店にとっては嫌な時代だったことだろう。
 今では、雑誌や漫画などには強固な包装がかけられ、立ち読みはできない場合がほとんどだ。
 本はいたまなくなったが、皮肉なことに書店から客が減ることになった。
 通販の隆盛もあり、町の書店は今どんどん消えている。

 さて、そんな時代に「ドラえもん」アニメ化のニュースが飛び込んできて、小学4年生だった私は「毎週必ず観るぞ!」とかたく心に誓った。
 裏番組には当時小学生男子に大人気だった「マジンガーZ」が無敵の力をふるっていたが、私は「ドラえもん」を選んだ。
 今にして思えば、「ドラえもん」を選んでおいて本当に良かったと思う。
 「マジンガーZ」は令和の今でも全話視聴が可能だが、「日テレ版ドラえもん」は現在視聴不可能だからだ。

 当時は「ドラえもん」のてんとう虫コミックスも発売されておらず、アニメ化スタッフはおそらく既刊の小学館の学年誌のバックナンバーを頼りに各話を作ったに違いない。
 ビデオもコミックスも無かった時代のアニメ化作業には、今では考えられない苦労があったことだろう。

 さて、「日テレ版ドラえもん」の第1話を観ての感想だが……
 まず思ったのが「主題歌がドラえもんの世界観に合ってない!」だった。
 いや、小学4年生だった当時は「世界観」などという語彙は自分に無かったのだが、とにかく翻訳するとそういう感情を抱いたのだった。
 なんだか、ハチャメチャなズッコケたアニメの内容を思わせる歌詞とメロディーの主題歌で、「これ、自分が思っているドラえもんと違うなあ」と感じずにはいられなかった。
 6年後の1979年から「テレ朝版ドラえもん」が始まったが、このときの主題歌を聴いて、なんかほんわかした夢のある印象に「ああ、これこそが、ドラえもんの歌だよな」と納得したものである。

 「日テレ版ドラえもん」のドタバタなアニメ内容には作者の藤子・F・不二雄氏も納得いっていなかったようで、後年再放送差し止めの申し入れを行っている。
 あの主題歌は、まさにアニメのドタバタ内容を象徴していたものだった。

 ところがである!

 「日テレ版ドラえもん」の主題歌の作詞家はなんと藤子不二雄氏自身なのだ!
 当時はまだF氏とA氏に分かれていなかったので、どちらによる詞なのかははっきりしないが、「ドラえもん」作者のF氏による作詞で間違いないだろう。
 皮肉なことに、F氏が否定したドタバタした「日テレ版ドラえもん」のアニメ内容を、もっとも良く表していたのがF氏が作詞した「日テレ版ドラえもん」の主題歌だったのである。

 「日テレ版ドラえもん」には、令和現在、存在が抹消されているガチャ子というキャラクターが登場する。
 当時のドラえもんの妹分ともいえるハチャメチャなアヒル型ロボットだ。
 当時、ガチャ子はアニメオリジナルキャラクターだと私は思っていた。
 「ドラえもん」の漫画で見たことがなかったからだ。
 ところがガチャ子はアニメオリジナルキャラクターではなかったことを後年知った。
 ガチャ子は、F氏自身の筆で漫画に登場したことがあった、連載初期の頃の「ドラえもん」の正式キャラクターだったのである。
 アニメ化スタッフは、ちゃんと原作に準拠して話を作っていたのだ。

 だが、F氏としてはガチャ子の存在は無かったことにしたかったらしく、そのガチャ子を無断でアニメに登場させたことも、F氏の不興を買うことになったらしい。
 といっても、それはきちんとアニメ化スタッフに言わなければ伝わらないことであり、アニメ化スタッフもそれでF氏の不興を買ったのは残念だったことだろう。
 ただ、昭和当時から令和の現在に至るまで、漫画家がアニメ化に携わることはほぼなく、アニメ化スタッフに任せるケースがほとんどであり、この「日テレ版ドラえもん」でも、そうだったのであろう。
 それがこのような残念なケースにつながってしまったのである。

 そもそも、打ち合わせというのは膨大な時間がかかる作業である。
 アニメ化ともなれば関わるスタッフも多く、その全員と十分に意思疎通し共通理解を図って作業を進められれば理想だが現実には時間的制約があり難しい。
 --というか、不可能だ。
 なので、漫画家は性善説にもとづき、スタッフを信頼してアニメ化作業を任せる。
 アニメ化スタッフはその信頼に応えなければならない。
 信頼に応えるというのは、できるだけ原作に忠実にアニメ化するということであり、それ以外はありえない。
 「頼みもしない自己表現」など全く無用なのである。
 「日テレ版ドラえもん」ではジャイアンの母親は亡くなっている。
 原作ではジャイアンをやり込める重要なキャラクターなのに、存在していないとは!
 それは私の「日テレ版ドラえもん」に対するアニメ化不満ポイントの大きな1つだった。

 「日テレ版ドラえもん」第1話で主題歌にまず違和感を抱いた私が次に強烈に違和感をもったのが富田耕生氏によるドラえもんの声だった。
 私は漫画を読む時、心の中で各キャラクターの声を想像している。
 大体、アニメ化された時にそれが大きく外れているケースは少ないが、富田氏によるドラえもんの声は、私史上いちばんイメージが違ったものであり、以後それを超えるものは還暦に至るまでに視聴したどのアニメ作品にも無い。
 富田氏には何の落ち度も無く、これはスタッフ側のキャスティングミスである。
 しかも富田耕生氏は裏番組「マンジンガーZ」で敵の親玉ドクターヘルを演じていた。
 2重のミスキャストだ。
 放映を続ける内、内外から声が上がったのだろう、ドラえもんの声優は富田耕生氏から野沢雅子氏に交代された。
 私にとっては、野沢氏の声もまたドラえもんのイメージには合わないものだったのだが、少なくとも富田耕生氏よりはドラえもんのイメージに近くなったと感じていた。
 だんだん野沢氏の声にもなじんできていたのに、半年で放映終了したのはとても残念なことだった。
 これについては、アニメ内容とは関係ない大人の事情のごたごたが起きたためであった。
 ネットで調べれば出てくるので、気になった方はそちらを参照していただきたい。

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