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「天才」「ギフテッド」についての個人的見解

今日、Rの住人【哲学】さんが「ギフテッドの落とし穴」というなにやらとても興味深い動画をあげていました。

私は昔から
天才とかギフテッドについて思うことがあります。

「天からの才能」「天からのギフト」
それを、なぜ下界の住民である我々人間が
「貰ったか否か」判断できるのか?

人間は、生存戦略として
あえてそれが判断できないように
創られているのに。

IQについて

上記の動画の中で
ギフテッドスクールの通学者に
「IQの高い小学生を集めた」
そして教育を行ったが、思った成果は出なかったとあります。

ギフテッド教育は実質的に失敗しました。

そもそも、ギフテッド教育を行うにあたってIQで生徒を選別したのが
私は違うんじゃないかと思います。

私達はしばしばIQで天才か否かを判断する風潮があります。
しかし、IQテストは発達障害児へのスクリーニングテストです。

IQテスト、正式名称を「WAIS-Ⅳ」(大人向け)は
IQと4つの指標(「言語理解」「知覚推理」「ワーキングメモリー」「処理速度」)から、発達障害児の特徴を捉え、
その後の教育方法を工夫するためにあります。

知能検査は、能力の低いところ、不得意な能力分野を表現するのには長けていますが、高いからと言っても、それが天才的・創造的な能力を表す指数としては不適切、と言えます。

水谷心療内科

実際のIQテストを受けたことのある人はいるでしょうか。
私は心理学を学ぶ上で初めて真剣にWAISについて学び、実際に受けてみて、拍子抜けしました。

「こんなもので人の知能を測ってはいけない」と思いました(受験者の体調や心理士の習熟度に大きく左右されるし、そもそも指標が「板書ができそうか」のようなもの)。

IQが高い=知能が高いわけではない、というのは、専門家のなかでは常識とされているように思えます。

テレビなどで、有名人の知能指数(IQ)が高い、IQが130ある、「天才」、などとして能力の高さを表す数値として知能指数が表されることがありますが、実は、知能検査では、秀才のみならず、天才的な能力、ましてや創造的な能力を証明することはできません。

知能検査の由来については諸説ありますが、一つには、第一次世界大戦など、20世紀前半に多々あった戦時に、戦地では「使いものにならない」とみなされた知的障害者をあぶり出して排除する目的がありました。戦場で爆弾や毒薬を扱う際に、不手際があっては戦隊全体の生死に関わります。そのため、劇物の恐ろしさを正しく理解して扱える能力が問われ、そんな必要性から知能検査が生み出された、と言われることがあります。原子力工学などを含め、戦争が科学を発展させる、と言われることがありますが、知能検査の由来も、そのような側面を持っています。

水谷心療内科

そもそも、WAISをつくったウェクスラーは
今天才と言われている…ジョブズとかエジソンとかより知性があったのか?そもそも知性とはなにか。有る無しはどう判断するのか。

人が、人の作った指標で一喜一憂していいはずがない。
人を判断するのは、せめてその人より多くの見える人でないと、歪が生じます。(紫外線が見えないのに紫外線の模様をジャッジできないでしょう?)

こんな簡単なことにも気づけない人間が
そもそも人を評価する資格ない。
ましてや天才だのギフテッドだの評価できるわけがない!と私は考えます。

「天才を殺す凡人」について

上記の動画では「社会では結果が出ないとレベル1にも達していない」。
要するに「天才=結果を出す人」と、ほんのり定義されていました。

それに対して、北野唯我さんの本の中では
隠れた天才がいて、それが凡人に殺されているという主張があります。

天才は結果を必ず出すのか。
それともその過程で潰れるのか。

本質はどちらも異なるのです。

あれは凡人が天才を殺しているのではなく
「そこそこ役に立つ人間という種」が
「あまり役に立たなそうどころか
この種を破壊しそう(不利益を与えそう)な種」を「人間という種を守るために排除する」という、
自然摂理にとって「当たり前すぎる」ことを言っているだけです。

要するに、凡人が殺しているのは天才ではなく、役に立たないorむしろ破壊しそう(にみえる)人間です。

そして、天才=結果を出す人なのではなく
結果を出す人に更に結果を出してもらい
人間という種族を繁栄させるために「天才」と囃し立てる文化が便宜上あるのです。

同じ種が役に立つ個体を崇め
役に立たない個体を排除するのは
どの生物もやっていることです。

天才とか凡人とか関係ない。
要は我々は種が存続繁栄すればなんでもいいのです。それに気付けなくとも。

そもそも天才やギフテッドは存在しない

すべての現象に言えることですが
この世にあるのは
実態ではなく「言葉」です。

人間の生存と繁殖にとって
都合の良いシステムに
結果論としてなります。

その通過点として
便宜上言葉があります。

その言葉の一つが天才だったりギフテッドです(ちなみにMBTIのタイプもこれです。実際にあるものではありません)。

特に、私の推測ですが
ホモサピエンスは
先代のネアンデルタール人が頭が発達しすぎて(合理主義になりすぎて)自滅したことから反省し、協調性(コミュニケーション)を重視するよう調整された種族だと思っています。

なので、はなから自分が天才か否か
判断できる素質を抜かれているのです。

誰が神から選ばれたか、能力で優劣が付けば
戦争が起き、自滅します。
そして過去におきたその歴史の積み重ねから
あえて優劣で決められないように
長い年月をかけて調整してきた
その反省を遺伝子からもっていると考えています。

(我々人間はマリオワールドの創造主ですが
そこにいるピノキオが「(自分は)人間から才をもらった」みたいなディスカッションをしてる姿を思い浮かべてみてください。
滑稽でしょう。)

以上です。少し理解し難いかも知れません。

「え、どうしてこんなにやけになってるの」って?

別に、
「はいはい、天才天才」と笑って過ごせばいいのだと思います。

けれどいい大人が
自分は天才だとかギフテッドだとかいうように振る舞うのも…
どうみても人を判断する立場にない人が
彼は天才だギフテッドだと判断するのも…

なんだか気持ち悪くて、黙ってはいられないのです。

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