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どうする家康!?「女性関係から見る天下人」

2023年の大河ドラマの主人公はこの人!
小学生でも知っている日本史史上トップクラスの有名人、徳川家康。
最初に断っておきますが、僕は歴史好きなただの一般人であって研究者ではありません。個人の妄想、勝手な解釈が主なトピックスですが、もし歴史的な事実に誤りがあればお詫びします。一緒に歴史人物の新しい見方について楽しんでもらえたら本望です。

人生を俯瞰するライフレコード

年表といえば、通常左から右または上から下というような直線で表現されています。年表は直線で時間を表したもの。他に時間の流れを表現したものとして時計があります。時計は円で時間を表していますよね。そもそも、時間って地球が太陽の周りを回るとか、月が地球の周りを回るとか、星の動きが元になっているのです。時間とは、過去現在未来が前から後ろに一直線に流れているというよりも、円として同じ流れを周回しているイメージの方が正しいのかもしれません。
そんなわけで、人生を始まり(誕生)から終わり(死去)までを一周として考えてみました。それが人生を俯瞰するフレームワーク、ライフレコードです。まず、一年を円で表現する暦・地球暦で表されている誕生日を起点としました。中心には肖像画を、最内には子どもや病気など人生に影響を与えたプライベートなことを、第二層目は家康が行った歴史の教科書にもあるようなオフィシャルな出来事を、最外には家康にも影響を与えたであろう災害や朝廷の動きなど取り巻く環境の変化を記しました。


熟女好きの原因は幼少期?

家康は幼少期に愛情不足だったのかなと感じます。1歳で実母が離縁され、父も6歳の時に暗殺されています。4歳で織田家の人質となり、そのあと今川家の人質にもなっています。周囲に気の許せる人はほとんどいなかったのではなかったのでしょうか。そのことから、家康は「鳴くまで待とうホトトギス」という歌からよく言われているような気長な性格ではなく、猜疑心が強く石橋を叩いて叩いて渡るタイプのように思えます。
また、家康の熟女好きの要因として幼い頃に母もしくは母代わりの人がいなかったことによる憧れや甘えたい気持ちなどが現れているのかなと感じます。余談ですが、熟女というか経産婦は子どもを産んだ実績があるとして当時は重宝がられたようです。家康にもそういった意図があったのかどうかはわかりません・・・。しかし結局晩年は若い女に走っているので、根っからの熟女好きではなかったと思われます。


家康が子作りに励む背景

家康には11男5女の子どもたちに恵まれたビッグダディでした。さらに養子・養女が合わせて21人、隠し子の噂が8人と桁違い。養子・養女は婚姻関係を結ぶための政略的要素が強く、そして隠し子はまあ噂でしかないので省きます。隠し子リストには三代将軍家光が含まれているくらいですから。それでも16人も子どもがいるというのはすごいです。今の政治家もそれくらい子ども作れれば少子化も歯止めがかかるかもしれないのに。でも、子どもを産んだ奥方は11人ですから、今の倫理観では無理ですね。

さて、ライフレコードで見ていくと家康の子作りにはタイミングがあるなあと感じました。最初のタイミンングは築山殿との結婚直後に長男・信康と長女(いずれも母は築山殿)を授かっています。初体験からモンキーマジックにハマったのか、世継ぎへのプレッシャーがあったのかはわかりませんが、嫁さんが主家筋(今川義元の姪)だったこともあり、結構怖かったのではないかと考えられます。でも世継ぎが生まれたらひとまず解放、となったのか?ここからタイミングとしては少し空いて、次女、次男と続きます(母はいずれも側室)。


次に家康が子作りに励むのは正室・築山殿と長男・信康を武田に内通した容疑で自害させた直後というのが非常に興味深い。同年に三男・秀忠が生まれていますが、誕生は5月のため、仕込みは前年夏あたりか。10月に信康自害事件が起こり、翌年9月には三女が、10月に四男・忠吉が生まれています。逆算すると・・・仕込みは年末年始あたりか。正室と長男を失った悲しみからなのか、はたまた旧主家筋の古女房がいなくなってヒャッハーしてしまったのか。

家康の子作りラッシュはまだまだ続きます。続いては1592年から1595年にかけて。家康は既に50歳に到達しています。当時の平均寿命からすると亡くなっていてもおかしくないお年頃。ここで六男・忠輝、七男・松千代、八男・仙千代とハッスルしています。この原因を探るべく、前年、前々年を見ていくと、1590年に小田原征伐があり、翌年に江戸に国替えになっています。さらには、政略結婚として輿入れした、醜女で有名だった秀吉の妹・朝日姫(バツイチ熟女)が亡くなっているではありませんか。家康は朝日姫との子どもはいないので、本当に仮面夫婦だった可能性が大です。「歴史は繰り返される」という仮説が正しければ、正室がいなくなってまたヒャッハーしてしまったんですね。そして転勤で慣れない土地に住むことになったストレスもあったのかもしれません。

「英雄色を好む」と言いますが、家康の精力はとどまることを知りません。もう一度子作りラッシュがあるんですね。それは関ヶ原の戦い前夜から江戸幕府開闢にかけての期間です。1600年に九男・義直、1602年に十男・頼宣、1603年に十一男・頼房が誕生しています。家康は還暦前という、もはやおじいちゃんの年です。実際、数年前には孫娘の千姫も生まれています。このタイミングの子作りラッシュにも2つの理由が推測されます。一つは秀吉・利家という目の上のたんこぶが亡くなったこと。いよいよ自分の時代だという開放感があったのかもしれません。もう一つは七男・松千代、八男・仙千代を続けて亡くしていること。七男・松千代の母である茶阿の局には六男・忠輝がいましたが、九男・義直の母・お亀の方は八男・仙千代の母と同じなので、奥さんを慰める意味もあったのかもしれません。その勢いで当時20代だったお梶の方(五女母)と子作りしちゃったりして。やるときはやる男です、本当に。


災害から見る天下取り

一番外側の層を見ていきますと、いつ災害などが起こったのかがわかります。「天下人は天が決める」というセリフが花の慶次にありましたが、天が乱れる時にはやはり大事件が起こるものです。


まずは戦国時代最大の事件である1582年の本能寺の変周辺を見ていきましょう。数年前から大洪水や噴火があり、変の当年も浅間山、阿蘇山での噴火があります。さらに翌年には三河地震に再び阿蘇山が噴火しました。その後も阿蘇山がまた噴火したり、霧島山も噴火したり、天正の大地震も発生しています。これは政情不安定になりますね。その後の豊臣政権下でも噴火や地震は続き、1596年には豊後・薩摩大地震に続き、慶長の大地震が発生します。そんな中朝鮮出兵なんぞを行なっていたら、そりゃあ天にも見放されます。そういえば、「天下人は天が決める」というセリフを花の慶次で吐いていたのは秀吉じゃなかったかな。

その後、関ヶ原からも災害が続き、民心は不安定になっていきます。歴史書に大地震として記録されている震災が次々と発生しているのです。上総安房大地震、日蝕、南海大地震、関東大地震、会津大地震、仙台大地震、江戸大地震と、関ヶ原以降、家康が亡くなるまで、16年という短い期間に6回も震災に見舞われています。天がまだ徳川を天下人として認めていないと考えて強引に大坂の陣を起こしたかどうかは定かではありません。

災害と天皇陛下の関係も興味深い発見がありました。ライフレコードの大外赤字部分にご注目ください。

家康の人生で天皇の代替わりは3回ありました。最初は1557年、後奈良天皇が崩御し正親町天皇が即位しています。崩御からの即位はある意味当然ですね。注目は退位した次の2つです。

1586年正親町天皇が退位し、後陽成天皇が即位しています。その前年には近畿東海北陸に甚大な被害を及ぼした天正の大地震が発生しています。

そして1611年には後陽成天皇が後水尾天皇に位を譲っています。この年にも会津大地震、仙台大地震(三陸津波)という大災害が発生しています。災害と天皇退位との関係は深いんじゃないか?というのが今回家康のライフレコードを見たときの仮説です。国家の安寧を祈願する天皇陛下の力が弱まったから国民に被害を及ぼす災害が起こる。力のある次世代に禅譲という流れなのではないだろうか。今回の今上天皇の退位騒動ももしかしたら東日本大震災いに発端があるのかもしれません。あくまで仮説ですが。

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