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人生の虚無について ベロニカは死ぬことにした

最近、『ベロニカは死ぬことにした』という本を読みました。
『アルケミスト』で有名なパウロ・コエーリョの著書です。

「退屈だから」という理由で自殺未遂をした若い女性の話なのですが、共感したり考えさせられたりするところがたくさんありました。

私自身も人生の意味を考えたり、虚無感にとらわれることがよくあります。
考えても仕方のないことだとは思うのですが、たぶん私はこの先もずっと考え続けることになるでしょう。

今回はかなり重い話になりますが、一応言っておくと私は希死念慮を持ったことはありません。(なので心配しなくて大丈夫です笑)

この本の中で特に印象に残った言葉を3つ紹介します。

「(前略)狂気とはね、自分の考えをコミュニケートする力がないことよ。まるで知らない外国にいて、全て周りで起こってることは見えるし、理解もできるのに、知りたいことを説明することもできず、助けを乞うこともできないの。みんなが話してる言葉が分からないからよ」
「わたしたちはみんなそう感じてるわ」
「だからわたしたちはみんな、なんらかのかたちで、狂ってるのよ」

『ベロニカは死ぬことにした』パウロ・コエーリョ

ここでは周囲と感覚がずれており、かつそれを周囲の人間に伝える言葉がないことを「狂気」と呼んでいます。
人間の感覚や考えは一人ひとり違いますが、その微妙な「ずれ」を隠して「普通」を装うか、または「ずれている」ことを周囲に伝えることで成り立っているのが人間社会であると言えます。
それを伝えられない人を待ち受けるのは孤独です。
わかりやすく言えば、「あの人なんか変」と思われて誰からも相手にされなくなります。


コミュニティが大きな問題に直面する時、例えば、戦争、超インフレ、疫病などだが、自殺者数にほんの少し増加が見られるものの、鬱病やパラノイアや精神病は確実に減少している。それは、その問題が克服されればすぐにいつもの数値に戻ることから、イゴール博士によれば、人は狂うという贅沢を、そうできる立場にいる時だけ許すものだった。

『ベロニカは死ぬことにした』パウロ・コエーリョ

これはあくまで作中の架空のデータに関するものであり、実際にそのようなデータがあるのか、またそんな調査が本当にあるのかはわかりません。

人間は退屈なときに狂うということがこの作品の随所で言われており、作者の持論と思われます。

生きるか死ぬかという状況で必死に頑張っている状態では、ある種の思考停止状態になっていて、狂気を引き起こす複雑な思考が入る隙間がないからでしょうか。

でも実際には戦争や貧困と鬱のほうがむしろ密接に関わっているのではと思います(調べていないのでわかりませんが)。


憂鬱による中毒の一番大きな問題は、嫌悪、愛、絶望、興奮、好奇心といった情熱も、自己主張しなくなることだ。しばらくすると、憂鬱になった人は全く欲望を感じなくなる。彼らは生きる意志にも死ぬ意志にも欠けていて、それが問題だった。

『ベロニカは死ぬことにした』パウロ・コエーリョ

うごくちゃんというゲーム実況者がいて、以前動画で
「自分は死んでないけど、生きてもいない」
というようなことを言っていました。
私はうごくちゃんのことをよく知りませんでしたが、その言葉に深く共感しました。私も同じように感じていたからです。
(今その動画を探しましたが、見つけられませんでした…。)

そして、うごくちゃんは2020年に自殺しました。
うごくちゃんが自殺した理由が積極的に生きることができなくなったからなのか、今となってはわかりません。
自殺した人の気持ちは本人に聞かない限り推測にすぎないので、知ることはできないでしょう。

「退屈で死ぬなんておかしい」と思うかもしれませんが、何もしたいことがなく、生の実感もないまま何十年も過ごすのはものすごい苦痛だと思います。

ベロニカが退屈だった理由

ベロニカはそこそこ裕福で外見がよくモテて、平凡ながらも何不自由のない生活を送っていました。そのような生活のゆとりに憂鬱が入り込んでしまい、生きる気力を失っていきます。

ネタバレにならない程度に言うと、ベロニカは自殺未遂をしたことで生の終わりを意識するようになり、そこから逆に生への希望を見出していきます。

実はベロニカは何もしたいことがないのではなく、本当はしたいことがいくつかあったのでした。
でも周囲の人間や自分自身が「それはダメ」と制限をかけていたことから、欲望が抑圧され、それをしたいということ自体忘れ去っていたのでした。

自分が本当にしたいことを思い出したとき、ベロニカは退屈ではなくなったのです。


私が退屈な理由

私も「人生は虚しくて退屈だ」と感じることがよくあります。
世界には生きたくても生きられない人もいるのになんて贅沢な、とは思いますが、そう思ったところで急に人生が実り多く感じられるものでもありません。

私が退屈している理由は、まず第一に暇が多すぎるからだと思います。
(翻訳の仕事が増えるように一応努力はしているのですが…)
余暇があってもやりたいことや一緒に過ごしたい人がいないのです。

この本を読んで得られたヒントは、本当はやりたいことがないのではなく、無意識に自分で制限をかけているから「やりたい」という気持ちが湧かなくなっているのでは、ということです。

「お金がかかるから」「一緒に行く人がいないから」などの理由で自分の気持ちに制限をかけていることはないか、もう少し考えてみようと思います。

ASDの観点から言えば、興味が限定的なので日々が同じことの繰り返しになりやすいです(すべてのASDがそうというわけではありません)。
いくつか趣味らしきものはあるのですが、何年もずっと同じで、しかも一人で完結できることばかりなので趣味仲間もいません。

私は他人から影響を受けることが少なく、興味の範囲が広がりにくいです。
例えばワールドカップで盛り上がっていたらなんとなく見てみる人がいるかもしれませんが、私はスポーツに興味がないので一切見ません。
東京オリンピックもまったく見ませんでした。開会式すら見ていません。

こういう頑な(?)な態度が良くないのかなぁと思っています。
でも趣味を見つけるために自分を曲げて頑張るというのもなんか違う気がするし…難しいですね。
他人から影響を受けないことは見方によっては長所にもなりますし。


今回はかなり重い内容でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
良い一日になりますように♪

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