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依存でも自立でもない心のセルフケアとしての「つながり」のススメ

 はじめに

 世の中に数ある社会的な支援の中で、「ソーシャルサポート」という言葉があります。

 休職してリワークに通っていた時期にレジリエンス(wikipediaに飛びます)」について学んでいた時に知った言葉です。レジリエンスについてはまた機会があればまとめてみたいと思っていますが今回は割愛します。ソーシャルサポートをもう少し実際的な言葉に言い換えると、「何かあった時に頼れる個人的、社会的なつながり」といった意味になるかと思います。リワークに通っていた頃に、一度自分の持ちうるソーシャルサポートを列挙して確認するという作業を行いました。その時はあまり実感を持っていませんでしたが、復職後、リワークとのつながりが薄くなってきた辺りで、この言葉について意識する機会が増えてきました。私のnoteでは心理療法に関する自身の体験を基にした記事を主に書いていますが、今回の「ソーシャルサポート」は心理療法の用語ではありません。しかしもう少し広い括りでの「心のセルフケア」という観点では重要な言葉だと最近考えるようになったので、今回は「ソーシャルサポート」の重要性について触れてみたいと思います。ただし、あくまで心のセルフケアとしての重要性に焦点を当てた内容で、本来の「ソーシャルサポート」の持つ意味から若干外れている部分もあると思います。すぱ郎自身の個人的な解釈が多く含まれていますが、心のセルフケアにご興味があればこの先も一読ください。

「人に頼る」事の難しさ

 「自立とは依存先を増やす事」は、医師であり先天性の脳性麻痺当事者でもある熊谷晋一郎先生の言葉です。先生は重度の身体障害を生後すぐに背負う事となり、様々な経験を経てそのような考えに至ったとのことです。

 そもそも論として、ソーシャルサポートが課題になる人はどういった人でしょうか?
 あくまで自分のイメージですが、病気や障害あるいは何らかの困難を抱えている人で、それによって生じる不便や不満あるいは不幸について、上手に他者を頼ってそれらを軽減ないし解消できている人は、ソーシャルサポートを上手く活用できていると言えるのではないかと思います。反対に人に頼る事が得意な人とは、あくまで今回の記事の掲げる「心のセルフケア」の範囲の中ではですが、例えば何か辛いことがあったら気軽に長時間友達に愚痴の電話ができる人や、家族やパートナーに気軽に仕事の不満や失敗を零せる人など、あるいは医師や心理士あるいは精神保健福祉士といった専門職に上手に頼る事が出来る人が、ソーシャルサポートを上手に活用できている人ではないかと思っています。
 「人に迷惑をかけたくない」あるいは「人に弱みを見せたくない」もしくは「人に弱みを曝け出して理解されないのが辛くて言い出せない」なのか、理由は様々だと思いますが、そういう「ちょっとした弱音や愚痴」を誰にも吐けずに溜め込んで、気が付いたら心のコップが溢れ出しそうになるぐらい辛さが蓄積してしまう人はいます。どちらかと言えば自分もその傾向があります。そういった人にとって、「ソーシャルサポートはセルフケアとして身に着けておく手段のひとつ」と意識し直す事が、生き辛さを解消する一つのステップになるのではないかと思います。

ソーシャルサポートを見直す方法

 とはいえ、「意識し直す」だけでは中々難しいと思うので、実際に自分が行ったワークを紹介したいと思います。方法はシンプルで、白紙の中心に「自分」を書き、その周りを取り巻くものとして個人あるいは社会的なつながりのあるものを一つ一つ書いて自分と矢印でつないでいきます。自分が作った例を下記に示します。一部個人情報的に伏せさせて頂いているものがあるのはご了承ください。

過去に実際に作ったソーシャルサポート図

 このように、ソーシャルサポートについてただぼんやりと考えるのではなくて、具体的に紙に書き出すなどして、具体的に自身の状況を整理してみる事をお勧めします。書いてみる事で、「ああ、そういえばこんなつながりも自分にはあったな」という気付きを得られやすいからです。自分の場合も実際に細かく書き出してみて、それが自分の来歴を振り返るきっかけにもなり、改めて気付く部分が多くありました。
 ちなみに、以前紹介したスキーマ療法のセルフワークブックでも「サポートネットワーク」というソーシャルサポートとほぼ同義のワークがあります。先日別のスキーマ療法に関する記事で紹介させて頂いたくっぺさんが、そのサポートネットワークについての記事も上げていますので、興味のある方は一読下さい。

つながりは何のためにあるか

 こんな感じで自分のつながりを再認識しましたが、それだけで終わってはあまり意味がないというか、非常に勿体ないです。実際に行動として、自分が持ちうるつながりを活かして、他者に自分の気持ちや考えを話す機会を持てるようになると良いと思っています。
 とはいえ、ここで大事なことは「誰かに相談して悩みを解決してもらおう」とか、「誰かに自分の人生の答えを貰おう」という事を目的にするのではない、という事だと思っています。
 じゃあそのつながりは何のためにあるのかというと、分かりにくい言い回しかもしれませんが、「自分の立ち位置を確認して、きちんと前を向いて歩く前に左右の安全確認をする」ためにあるのではないかと今は思っています。
 人生のある局面で重要な決断をしないといけない時というのは、多かれ少なかれ誰にでもあります。その時に、自分以外の誰かに答えを求める事はその時の心理的な負担を減らしてくれるかもしれません。しかし、その他者の出した答えに従った結果、何かしら辛い未来が待っていたりすると、「〇〇の言う事を聞いたせいでこうなった」など、中々昇華しにくい「恨み」などのネガティブな感情が心の奥底で燻り残り続けることがあります。それを何かしらのポジティブな行動の原動力に変えられる場合はまだいいかもしれませんが、その燻りに囚われて反芻思考に陥り心身共に動けなくなるようでは、それは自分にとって良いものとは言えないと思います。
 ありきたりな私見ですが、人生で大事なことの一つに「最後は自分で決める」事があると思っています。様々な場面で迷い悩んで揺らぎながら、納得しうる100点満点の回答を導き出せなくても、最終的に自分が出した「答えのようなもの」を出した上でそれに殉ずる事が、結果としてその後の自分自身の人生の受容につながると自分は思っています。ただしそれは、「誰にも言わずに一人で全部決める」とは違うのです。ここがややこしいですが、同時に今回の記事の肝になるところでもありますので、もう少し説明します。

差異を認識するための「つながり」

 一言で言うと、「他者に自分の考えを伝える」行為そのものがこの場合一つの意味を持つのだと思っています。「自分はこう考えている」「自分はこういう事で困っている・悩んでいる」「自分はこうしたいと思っている」そういった事を全て自分の中だけで考えて、決めてしまうよりも、「誰かに伝える」「意見を交わす」過程を経る事で、自分の中の思考がより明確に浮かび上がるという事があります。
 何かを食べるときに感じる「甘味」や「苦味」というものは、他の様々な味を知って「比較」が出来るからこそその区別がはっきりと自分の中で出来るのと同じように、これは、人と意見を交わす事で「他者と自分の差」をより強く認識し、「自分の考えの持つ特有の領域」をより深く認識できるようになるからだと思います。このように自分の気持ちの立ち位置を確認した上で、「私はこうしたいと考えているのだ」「私はこの部分に関してはこういった拘りを持っているのだ」「ここは他者と共有できるが、ここは共有しにくいところなんだ」といった判断が出来るようになります。そして、そこを自分自身が理解して受け入れる事で、それから先自分がどう生きていくかを、少し冷静に考えることが出来るのではないかと思います。
 ここまで書いて思いましたが、これは「境界線(バウンダリー)」ともつながる話で、要するに他者との境界線を認識し、自分の領域の理解を深め、社会との適切な距離感を理解するという事がセルフケアそのものになりうるという事だと思いました。 

余談:「つながりなんてねーよ!」という人向けに

 ここまで読み進めて下さった方の中には、「自分には頼れる人なんていない!」という人もいるかもしれません。特に休職中などで人と中々関われない状況や、これまでの人間関係の維持が難しくなることはあると思います。そういった方全員ではありませんが、一つお勧めしたい事は、「亡くなった、世話になった親族とつながってみる」です。これだけだと怪しすぎるのでもっと具体的に言ってしまうと、過去にお世話になった人の「お墓参り」などをしてみるのがおすすめです。親族でそういう方がいなければ、過去にお世話になった方でも良いと思います。要するに、「自分は孤独じゃない」と思える対象であれば、それはきっと誰でも良いのではないかと思います。
 こんなことを書くと「お墓参りをそんな事に使うな!」と怒られそうですが、実際に自分は休職中に一番色々な意味で精神的に辛かった時期に、ふとした事がきっかけで大好きだった親族のお墓参りに一人で行きました。お供え用の花を買って、一通りお墓周りの掃除をした後に、墓前で手を合わせながらそれとなく現状の自分について愚痴交じりに心の中であれこれ報告をした事があります。すると、もちろんそれで劇的に何か現状が変わったわけではありませんが、意外なほど気分がスッキリしたのを覚えています。それはほぼ独り言だったので気楽に話せたというのと、「お墓を綺麗にした」という作業をし終えた達成感があったのと、漠然とした「自分は一人ではないのかもなぁ」という感覚を再認識出来たからだと思います。色々な事情でつながりを希薄に感じてしまって元気のでない人のコーピングとしても、お墓参りは個人的にお勧めです。SNSやネットの関わりとは、少し得られる感覚が違うと思います。

おわりに

 「つながり(ソーシャルサポート)」をテーマにつらつらと考えをまとめました。実際のソーシャルサポートとは大分意味合いの異なるものになってしまったかもしれませんが、狭義の「心のセルフケアのソーシャルサポート」についての1つの考え方と思っていただければ幸いです。
 他者との差異を認識する事で、自分の立ち位置の理解を深める事が自己受容の促進につながる。それにはどうしても他者とつながる必要がある。という事が、今回の記事の骨子になります。
 ある意味では、それはカウンセラーの方が適した相手かもしれませんので信頼できるカウンセラーがついている方であればそれで良いとも思います。日常的なつながりの中で常にその差異を認識しろ!という訳でもないです。ただ、あまりにそこに無頓着でいると、知らず知らずに自分の置かれる状況が辛いものになっているかもしれないから、その予防のために、時々そこを気にしようねというお話でした。
 多分、無自覚でこのセルフケアを上手に行っている方も多くいるんじゃないかなと勝手に思っています。一方で、それがセルフケアだと気付かず上手く行えていない方も実は結構いるんじゃないかと思いました。自分自身それをある程度意図的に行う必要がある人間だと自覚しているので、今回の記事を書く作業を通じて、ある種の「自己開示」は生きていく上でも大事な事だなぁと、改めて感じました。とりあえず年内にもう一度お墓参りに行って、この一年の事を報告する時間をまた作ろうと思っています。

 私のnoteでは、心理療法を独学で取り組んでいる方向けに、自身が過去に取り組んでみた心理療法の感想やそれらに類する事で気付いたポイントなどを当事者目線で記事にしていきたいと思っていますので、興味のある方はまた読んで頂ければ嬉しいです。それでは。

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