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新世代に託す-1

自分たちの世代と今の若者たちを比較するなんてことは愚の骨頂。それがそもそも老害だと言われるかもしれない。
我々の世代は目まぐるしい時代の変化に翻弄された、というけれど今生きる若者たちの方がもっと時代に翻弄されているのではないか?

私たちと彼らのどこに違いがあるのだろう?恵まれているもの、恵まれないもの、枯渇しているもの。
私たちが生きた時代は生身で感じるリアリティの時代だった。
一家に一台の自家用車。家族で車に乗って旅行をし、ハワイやグアムなどの観光地に友人や家族で毎年出かけていた。新しいブランドを次々と生み出し、繁栄するということを謳歌した時代。

しかしそれはまた奪取されるものから奪取するものへと変化した時代。いつの時代も奪取するものが繁栄し、奪取されるものは虐げられる。自分自身が奪取されていることも判らなくなるような社会システムや教育の中で生きてきて、全ての情報が開示されているようで他国との比較やネガティブ要因を報道しなくなった報道機関ではなく、Web上で新しい報道の形態が模索され始めている。

ショービジネスという「魅せる」ことを目的とし、それによって視聴率と巨大な資本を動かす仕組みの中では最優先するべきものは「正しさ」ではなく「収益」で、Web上でも収益の事業体は「個人」レベルまで細分化し、地上波の時代と同じくショー化を続ければ公共性は損なわれてゆく。それでも正しい情報の選択をするためには年齢には不相応な量の経験と教育を得なくてはならなくなる。

学習はよりパーソナルなものになり、それぞれが必要な学習を年齢には関係なく取得できるようになるだろうけれど、フェイクニュースのような不正確で誤った情報を取得しないように自己防衛が必要になる。少なくとも情報は多面的な角度で取り上げられやすくなって、取得する側の正確な判断能力の方が重要になる。

これからの若者に不足する情報はリアリティのある「痛み」「喜び」「悲しみ」を自ら選択して選ぶと何が起こり、それらが引き起こす「他者との関係性」や「他者に及ぼす影響」それに「自分に他者の状況を投影する」ようなことを自らの経験として取り込む情報だろう。つまり、相手を傷つけたりストレスを与えるということが相手にどんな影響を与えるかということを、自分に置き換えて考えることが困難になっているということだ。

以前はそういう経験を体験する状況は様々な場面であったが、現在はアニメやメタバースなど架空の物語での体験でしかなく、メタバース内で刃物で刺されても命の危険を感じることがないことで、他人を刃物で刺した時に相手がどんな苦痛を受けて命が失われる状況をリアルに感じることが出来ない。それが凶悪犯罪の低年齢化の要因に思える。成長する過程での小さなストレスは精神的な打たれ強さを作るかも知れないが、ストレスを感じる経験が少ないと小さなストレスでも耐えられなくなってしまう。ストレスが良いことだとは言わないが、ストレスに対する耐性を持つことが少ないのであれば、技術としてストレスに対処する方法を会得しなくてはならないし、他人を傷つけることのリアリティーについて理解できないのであれば教育でそれを理解させるしかない。

元々、自然に触れ合う環境があれば「寒さ」や「暑さ」、植物の棘に触ったときの痛み、魚を釣って食べる狩猟本能、美味しさ、食感、香りなど感覚や体験の共有ができる。本来自然の一部である人間が自然と切り離されることで起こる問題点は多い。

次世代に伝えなくてはならない最大のものは「体験」だろう。

我々先を行く世代は次の世代の体験を共有できていないのならば、世代を超えた体験の共有は相互理解には欠かせないものになる。

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