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能登

50年前の思い出

若い時に能登に行ったことがある。もうかれこれ50年ほど前(1975年頃)のことだから、細かいことは覚えていない。しかし、記憶の輪郭だけは残っている。思い出し思い出ししながら書いてみようと思う。

今年(2024年)1月1日午後4時10分頃、能登半島は震度7、マグニチュード7.6の地震に見舞われた。最大級の地震である。テレビで現地の放送を重ねるにつれ被害の甚大さが明らかとなってきている。一日も早い復旧を祈るばかりだ。

この地震の報に最初に接したとき、真っ先に思い出されたのが、学生時代に旅した能登半島のことだった。

あれはたしか、大学2年の夏だったと思う。アルバイト先の会社が夏休みをくれたので、ぶらっと1人旅をしようと思い立った。思い付くまま気の向くままで、目的の地は決めていなかった。当時青春18切符と言うのはなかったので、可能な限り安い料金で旅をしようとしたことは覚えている。

コイントス

その日、おもむろに新宿駅から昼過ぎの電車に飛び乗った。着いたのは甲府駅。午後3時は過ぎていたように思う。駅に着いてすぐに駅前にある武田信玄の像を見に行った。目的なしと言ったが、ここだけは目的を持って訪ねた。これが「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵」(甲陽軍鑑)と言う武田信玄か。ま、銅像なので特別な感情はなかったが、こんな土地にいたんだと言う感慨はあった。

武田信玄の像

街並みを眺めながらしばらくの間、甲府の街を散策する。しかし、真夏の甲府。盆地だから暑い。駅に戻って、次はどうするか、東京に帰るかそれともこのまま旅を続けるかを思案。迷った挙げ句、運を天にまかせてコイントス。表が出たら旅を続ける、裏が出たら東京に帰る。結果、表が出たのでこのまま旅を続けることとした

旅は続く

と言うことで、東京とは逆の方向に行くことにしたが、さてどこにしたものか。さして案があるわけではなかった。塩尻から名古屋に向かうか、それとも松本を通って糸魚川に出るか。またしてもコイントス。表が出たら塩尻経由で名古屋へ行く。裏が出たら、松本経由で糸魚川へ出る。結果、裏が出たので糸魚川に出ることにした。

甲府から松本を経由して糸魚川へ

おそらく少し日が傾いていたので、夕方5時頃の電車に乗ったと記憶している。とにかく、甲府駅から出発。目指すは糸魚川。塩尻か松本で一度乗り換えたように思う。一つ覚えているのは、岡谷を過ぎるあたりから周りが暗くなっていったことだ。

電車の中では、日本海(糸魚川)に出てからどうするかを考えた。そろそろテーマを決めなければならない。時刻表の最初のページにある全国の路線地図を見た。


1975年7月の時刻表

すると、能登半島が目に入ってきた。時刻表で列車の乗り継ぎを確認。松本から糸魚川に出て、そこで乗り換え、金沢方面に行く電車がある。夜中に金沢駅に着き、金沢駅で一夜を過ごせば朝一の電車で輪島に行けることが分かった。よしこれだ。当時流行していた歌で「岬めぐり」という歌があった。うん。能登半島をめぐる岬めぐりもいい。行先は決まった。

あとは糸魚川での乗り継ぎを失敗しないだけ。これから後の時間の記憶は少し間違っているかも知れない。とにかく、糸魚川で電車を乗り換え金沢駅に午前0時頃に到着。したがって、甲府駅を出てから約8時間程電車に揺られていたことになる。20歳とは言え無謀な強行軍。疲れた。

金沢駅

金沢駅に着くと、早速寝場所を探す。それからタオルで身体をぬぐい、着替えをする。寝たのは待合室のベンチだったようだ。そこで仮眠をとっていたように思う。当時は今とは違って牧歌的であり、外のベンチで寝ようが、待合室のベンチで寝ようが、駅前の広場で寝ようが、あまりうるさく言う人はいなかった。

1973年頃の金沢駅前

夜が明けて

夏の朝は早い。寝付けずに早く起きたのもあるが、日の出が早いのもある。まして、電車の出発時刻も早い。記憶では、午前5時前後発の急行電車だったように思う。とにかく朝早い時間の出発だった印象がある。

七尾湾の朝焼け

七尾を過ぎたあたりで、それはそれは幽玄な朝やけの景色が目に入ってきた。この世のものとは思われない、それぐらいの形容をしてもいいくらいの景色だった。

1974年夏の金沢から輪島への時刻表
七尾湾の朝やけ

輪島から海岸沿いにバス旅そして珠洲へ

午前8時台に輪島駅に到着。当時は、輪島まで国鉄が通じていた。輪島と言うと輪島塗りの漆器のことしか知らず、輪島朝市が有名であることは知らなかったため、輪島市内を観光した記憶はない。今にして思えば、無理をしてでもその時行っておけばよかったと思う。

輪島駅に到着してから、駅で能登半島の観光のパンフレットとバス時刻表をもらい、一旦食事をとり、食事が終わったらすぐにバスに乗り能登半島のアウトラインに沿ってバス旅を開始。途中途中で降りて観光スポットを見て歩く。

1980年頃の輪島駅

自分の記憶では、同じ目的で岬めぐりの旅をしていた男子学生と意気投合して途中まで一緒に旅をしたような記憶がある。海沿いの畑の中を通ったりもした。不思議なことに畑の中にはあちこちに石仏ならぬ念仏が刻まれた石塔が立てられていた。加賀の一向一揆は歴史で勉強したことがあるが、これほどまでに念仏が生活に密着していたとは。昔は宗教は生活の一部だったんだなぁと感嘆したことを思い出す。

それから、バス停近くの食堂でご飯を食べたりするのだが、バスの便は1時間に1本しかないようなところだったので、ご飯の時間とバスの時間が合わず、結構時間を消費した。その後、千枚田を見て、長く続く海岸沿いの道を時間をかけて歩いたりした。今と比べるとゆったりのんびりの旅ではあった。そうこうしているうちに、時間が過ぎて夕方になり、日本海の景色に別れを告げ、バスにて一路珠洲に向かう。

珠洲にて

珠洲に到着したころは辺りは少しずつ暗くなろうとしていた。ハタと帰りの電車のことが気になる。時刻表を見ると、金沢行の直通電車は穴水まで行かなければ乗れないことが分かった。珠洲から穴水への各駅停車はあるが、時間があわない。それに、今日はどこで泊まるかも決まっていない。さてどうしたものかと、途方に暮れる。暮れなずんでいく景色がさらに不安をかきたてる。

珠洲のバス停で1人悶々と悩んでいると、買い物を終わったらしい50歳くらいの男性が「おにいちゃん、どうした」と声をかけてくれた。一応、事情を説明する。「金沢に出たいんですが、穴水まで行かないと希望の電車に乗れないんです。穴水への電車はあるんですがその電車だと時間があいません」と。

また、手持ちのお金は限られているので、珠洲での宿泊は出来ない旨伝える。すると、その男性が、「ちょうどいい、自分は今から穴水方面に行くんで自分の車に乗っていくか」と言ってくれた。もちろん、渡りに船でありがとうございますと言って車に乗せてもらう。今、地図で距離を測るとおよそ45kmあるので、約1時間かけて穴水駅まで私を送ってくれたのだ。どこの馬の骨かわからない学生を。

珠洲市中心部周辺の空中写真。1975年撮影。

逆に言えば、もしかしたら、そのおじさんが、どこぞの国の工作員だったら、今頃日本で暮らしていられたかどうかと思うと、ぞっとする。当時学生のカップルが拉致されて、かの国に連れて行かれた事件があったが、ほぼ同じ時期の話である。

そういったことのない、やさしいほんわかとした田舎の町の人の親切心に20歳の学生は接することができた。お礼を渡そうとしたがいらないと言う。温かい心遣いに感謝。もしかしたら、本当は穴水への用事はなく、困っている人間を見て送ってくれたのかも知れない。そういえば、穴水への道すがら、車の中から道路の真上に見えた満月、絵の中にいるようでとても美しかった。

このような満月だった

あとがき

穴水に着いて急行電車に乗り金沢へ。ここから先の記憶も不確かだが、岐阜の多治見に叔母が住んでいたので、金沢で夜行電車に乗り換え北陸本線で米原まで行き、米原から東海道本線で岐阜へ。岐阜で高山本線に乗り換え美濃太田まで行き、美濃太田から大多線で多治見に着く。叔母の家には12時頃に着いた記憶がある。岐阜の暑い夏の昼だった。

このとき、手持ちのお金がほぼ0になっていたので、叔母から名古屋までの電車賃と新幹線代を借りるのと、お昼を食べさせてもらった。もしかしたら、その日が土曜日だったので、叔母の家に1泊して翌朝名古屋から新幹線で東京に帰ったのかも知れない。

こういうことがあったので、被害が出たその地をニュースで見ることになったとき胸が締め付けらる思いだった。まさかこんなことになるとは。今私にできることはほんのわずかな義援金を送ることだけだが、やがて落ち着いたら恩返しの旅に出たいと思う。


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